2021-08-29

今度は写真の作品で危機。


この数ヶ月、写真ばっかり撮影してたら妻にこんなことを言われた。確か10年くらい前にペインティング始めた時も、そんなこと言ってなかった!?



・もう絵は描かないのか!:今現在も、ドローイングも、ペインティングも描いてる。そこに写真を入れたい。

理由は:

・現状私のスタイルでは、美術館でのグループ展は難しい。現実問題、一度も公立美術館で誘われてない。と言うことは個展しかない。現状の作品では個展は厳しい。作品の内容ではなく会場を埋めることができないから。写真や映像があれば、使い方によって部屋(空間)を支配できる可能性が格段に上がる。

(人気<今の時代においての必要性>が無いが一番大きいが、それは言わない。)

・100年、200年後のコトを考えると色んな作品(コマ)を配置しておいた方がいい。デジタル(テクノロジー)関連の作品が無かったので、欲しかった。

・そもそも、子供の時から写真撮ってるし、ドローイングやってるときも、小金が溜まったら写真や、ペインティングに挑戦して散財してた(ペインティングは10年前に始め現在は形になってる)。

・カメラがフィルムからデジタルに変わった時、写真と絵画の関係はより深くなった。現状、パソコンやプロジェクター使った絵画は写真じゃないのか!?と、思えるし、フォトショップで加工してる写真は絵画じゃ無いのか!?と思ってたが、そこに写真じゃ無いと作れないテーマを(やっと)発見した。

・発見したテーマをペインティングで実行したら、今まで10年かけて出来上がった絵画の(テーマの)スタイルを破壊しないといけない。それは無理だし、今の所、それを絵画で表現する手段を知らない。

・自分のトラウマを30代で克服して、この技術で人を救える!って思った。そこで妻を救いたいって思いで付き合って結婚したんだけど、全く通用しない。絶望の先に他者性を獲得し、それが絵画性に繋がりペインティングの制作に繋がる。それから10年。石巻に来て別の、今までの技術では、全く通用しない強敵に出会う。

・ちなみの25、6歳の時は婚礼写真館のアシスタント(1年ちょっと)してて、「もう一人で大丈夫だね。」って言われたので、脱サラして、キワマリ荘(犬山)始める。


妻が言う「あなた覚えてる、私にその写真、ワンショット五百円かかっても撮影する?」って聞いたんだよ。「この間800枚、島で撮影して来たけど、それワンショット500円でもするの!?」。

絵もそうだけど、最初は数をこなさないといけない。そして選択する技術を身につける。それがデジタルになったおかげで、写真でできるようになった。今までは金銭的な理由で挫折して来た。それで止めるなら作品なんてできない、本当に写真をしたいなら、フィルムなくてもシャッター切るし、仕事してお金を稼ぐ。1番の理由はどんなに努力しても「写真で作品を作れない」コトだった。それが、52歳になってテーマが降って来た。


最近の写真を撮影し始めた理由(流れ):

0)2017年、石巻に引っ越した。

1)2021年3月、artrφn(アートロン)のテキストを書く。:

http://arimaworks2011.blogspot.com/search/label/artr%CF%86n

2)たまたま、展示品限りの安い一眼レフカメラを発見し購入した。

3)妻と桜を見に行き一眼レフカメラで撮影した(写真嫌いの妻が撮影を要求)。

4)習慣病で長く座ってるとお尻が痛くなって絵が描けなくなった。しかし、何かは創作したくてカメラを手に取った(これが一番の理由かもしれない)。

5)網地島に行った。

6)この流れの中で、今まで散々挫折した理由「作品にならない」が無くなった。写真でなくては表現できないテーマを見つけた。

7)流れを大切にしてるので、「あ~これは写真で何か作れって事かな!?」と判断し、幾度も挫折ポイントが現れたが、今の所は乗り越えている。

8)他者性の広がりを獲得しているのだが、究極は自己の喪失で、それが近い形で作品が作れるのは写真ではないのか?と考えてもいる。


など夜中になっても話し続ける。

わかった。でも完全に理解したわけでは無いから。」と、妻が立ち去った。

なんとか、今回も無事に家庭崩壊を回避できた。この辺りの妻の心情は10年ほど前の同じような(ペインティングで起きた)出来事を貼っておく。:作風を巡って、夫婦生活の破綻に発展しそうな、勢いに成った。



おしまい。

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おまけ。

最近の制作風景:


この4ヶ月間、寝ても覚めても写真のことを考え、写真を撮って来たが、全くピンとこない。多分1万シャッターくらい切っては見比べてる。理解できると成功してる人の写真がわかってくるから絶望する。まだ向き合い方が足りない。


写真の作品が作りたいだけで、写真の技術をあげたいわけではない、プロになりたいわけでも無いから、道具は関係ない。まあ、ペインティング始めた時もこんな感じだったけど、デジタル写真でシャッターを簡単に押せて勉強になる分、なんか一枚?行為?全体?が軽く感じる。


しかし、フィルムやってる経済力無いし、それが原因で何度も挫折してる。それが原因で辞めれる程度だったら最初からやるなって話だけど。今はデジタルで、努力を先に積める。youtube先生のおかげで勉強ができる。素晴らしい時代だ。


浅田家(映画)を見る。先生が主人公に「最後の一枚だと思って撮れ」みたいな事を課題に出す。私も絵に関しては、そういう向き合い方だし、展覧会もそうだ。いつも人生最後だと思って展示してる。でも写真では!?って考えると向き合い方が足りない。


ドローイング(犬山)→<転換期:水戸の2年間>→ペインティング(柏:結婚)→<転換期:石巻の4年間>→写真(石巻)と成ってしまっている。移動する度に作風変わってる。今のテーマが絵画じゃ無理な気がする。10年コースかな、焦らずにゆっくり構えてくかな。


多重瞬間性の定着が写真独自だとは思うけど、それ以外は絵画とリンクする。絵画は圧倒的に自己の思いだけど写真は他者性が入ってくる。今絵画やってるとデジタル技術や他者性を使うことが多いから写真性に接続してしまう。


成果が出ないと「うわ~~!!」となるが、絵とかだと作品破ればいいけど、デジタル写真って破ったり、壊すモノがない。データ消すって何かフラストレーションが散ってかないから、その辺がモヤモヤする。ネガがあると、カットして燃やすとか視覚的にも納得できるけど。


とにかく最後の1枚だと思う。、、か。フィルムだと実感あるけど、デジタルだからなぁ。この考え方が昭和的なのかもしれないし。って考えると面白いな。











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写真の勉強法(現状)。

<youtube>

批評:

2B Channel :https://www.youtube.com/channel/UCfaR0r_x5jN3gOXYYBjNkkQ

トモコスガ言葉なき対話: https://www.youtube.com/c/tomokaflex

megutama TV<ほとんど料理>飯沢耕太郎の写真集千夜一夜):https://www.youtube.com/channel/UCpF3CBtjdI7nGJNSvps54Zg


写真集:

shashasha/写々者:https://www.youtube.com/channel/UC9pJvp3r0n_BuohjEPsVttw

そのほかもタイトルと作者で探せばほぼある。


雑誌:

IMA のテキストを可能な限り読む。: https://imaonline.jp/articles/

IMA MAGAZINEを可能な限り購入。: https://imaonline.jp/imaproject/ima_magazine/


書籍:

新写真論 スマホと顔(著:大山顕)

写真をアートにした男: 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン(著:粟生田 弓


写真集:

William Eggleston's Guide

william eggleston portraits、

Stephen Shore: Uncommon Places: The Complete Works

Sleeping by the Mississippi Soth, Alec

Niagara Soth, Alec

など

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+


写真を始めるきっかけになった網地島のテキスト:

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網地島。


一人海辺で佇んでると、ひと波ごとに自分や家族が薄れていく。

このまま居ると全て忘れそうで怖くなり立ち去る。


森に入ると、五感が開き島が流れ込んでくる。

島に取り込まれる恐怖を覚え足早に成る。

舗装された道に安堵する。


この島には川が無い。

ゆく川の流れが無い。

知ってる(美)意識が通用しない。

波が写真のように(ある)時間の幅を永遠に繰り返す。

誰もが浦島太郎(時間漂流)になり得る場所。


この島には過去と未来は無く「いま」と言う広がりが「ただ」「ある」。


私たちは、(川のように)あらゆるモノ(コト)に流れがあり物語が生まれる(可能性がある)と思っている。ゆえに並行世界の存在に行き着いてしまった。しかし、そんなモノ(コト)は無いと考える。一神教や一点透視図法によって、脳(人)は生きるために物語(始まりと終わり)を望むように組み替えられた。そして、私たちは他者を理解し合うことを目標や善としていて、それをより繋げ広げようとしている。しかし、私はこう思う。人は「お互いに理解し合わなくていいように、自分のままでいられるように」繋がり広がっている。そう、モノコトに起承転結は無くただ「今」があることを愛する。結論を求めず、関係性を愛し、広がったり縮んだりする揺らぎのある「朦朧とした輪郭」を意識する。宇宙と空のように、空と海のように。私たちは、ただ「ある」だけで、自分自身で「あり」、他(者)と繋がり広がっている。


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FAUST IN MARIENBAD by 網地島

<個の追求の果てにある他者性と、その奥にある風景。>2021