2018-11-21

KAORU ARIMA – To See / Queer Thoughts(NY)



"Queer Thoughts"
373 Broadway #C9
New York, NY 10013

KAORU ARIMA – To See
November 15 – December 16, 2018

OPENING RECEPTION: 11.15.18, 6-9 PM


http://queerthoughts.com/pages/Exhibitions/Kaoru_Arima_2018.html




KAORU ARIMA – To See
November 15 – December 16, 2018

We are quite familiar with drawing and painting while looking at an object or landscape, or drawing and painting while looking at things in a dream (fantasy), and so on. But maybe we can also draw or paint by detecting visual forms through other senses, especially the haptic one, such as looking at bones by touching one’s own body, or looking at the space inside one’s mouth using one’s own tongue, or looking at the texture of one’s respiratory organs through breathing.

 Why now?
Now is the time when artists are often demanded to construct works through both visuality and thought that is linked to internet searching and curation, or to critically respond to current events. But a human being is an interface where five senses can be mutually converted (shared); making art through five sharpened senses is an important pursuit as well.

About Skeleton:
Skeleton is a symbol of death. Life and death always coexist. Partly influenced by taijitu (yinyang symbol), where even in the yang area there is a dot of yin, I had a desire to get close to and touch death inside me, to understand it, which made me start to touch my bones.

As for the exhibition:
I hope the audience could see each element of the exhibition as-is. So, while being cautious about how to stop working right before it becomes a “painting/drawing” or an “exhibition,” I will try to make something that is barely an exhibition, an attempt on a tightrope. Every time I have an exhibition, I plan it based on the idea that this would be the last show in my life. And also, I always wish that my exhibition could mark a step further, or beginning of a ripple, no matter how small it is, for human kind.

 Kaoru Arima (b. 1969, Aichi, Japan) lives and works in Ishinomaki, Japan. Arima has exhibited extensively throughout Japan, and has had solo exhibitions with Misako & Rosen, Tokyo; and the Watari Art Museum, Tokyo, among others. His work was included in surveys such as “The Age of Micropop: The Next Generation of Japanese Artists” at the Art Tower, Mito; The 54th Carnegie International, Carnegie Museum, Pittsburgh; and “How Latitudes Become Forms” at Walker Art Center, Minneapolis, where his work is also represented within the permanent collection. Select solo and group exhibitions include Kimmerich, Düsseldorf (solo); Catherine Bastide, Brussels; Bortolami, New York; and Shane Campbell Gallery, Chicago. This is Arima’s second exhibition with Queer Thoughts (2013, Chicago), and his first solo exhibition in New York City.

A performance by the artist will take place on November 15 from 6-9 PM.



タイトル:みること 

「モノや風景を見て描く」、「夢(空想)を見て描く」などは当たり前に行っているが、ここに「手で体を触り、骨をみる」、「舌を使い口の中をみる」、「呼吸をした時の器官のはだざわりをみる」などの別の感覚(触覚)で、視覚的な輪郭を与え描いてみる。このシリーズ発表のタイミングを探していたら10年以上経ってしまった。とはいえ、ずっとドローイングや、ペインティングを描く時、モノを捉えキャンバス(紙)に定着させる時、確実に触感をイメージして描いていた。

なぜ、今なのか:
検索とキュレーションによる、視覚と思考で構築したり、時事ネタにクリティカルに反応することが求めらる場合が多いが、人間は五感を相互に変換(共有)できるインターフェイスである。五感を研ぎ澄ます表現も大切な試みである。

骸骨について:
骸骨は死の象徴で、人の生と死は常に共存している。道教の太極図(陽中の陰)の影響もあり、自分の中にある「死」に近づいて触れたい、理解したいと思うようになったのが骨を触りだした始まり。

展示に関して:
展示に関しては、要素をそのままを見て欲しいので、「絵」や「展示」になるギリギリ手前でいかに止めるかに注意を払いながら、ギリギリ成り立つような展示を目指す。
NY初個展について思うこと:
展覧会はいつも、「これが」人生最後の展覧会である。と思ってプランを考える。
そしてそれが、人類にとって、小さくても、波紋を広げたり、一歩だったりすればいいなと思っている。
























2018-01-27

つつじ野(石巻かほく) 

+ 

つつじ野(石巻かほく):


750字(全8回) 20171207~20180128(毎週木曜) 


(1)来石 

(2)なぜダメなのか考えてみる。 

(3)タブー 

(4)作品の感想を聞かれる時がある。 

(5)「作品の行き詰まり」の対処方について 

(6)写楽の線 

(7)作品性と作家性というのがある。 

(8)それを「愛」という。(終) 


 

つつじ野:


(1)来石 


寒くなって来ましたが、話は夏に遡ります。リボーンアートフェスティバル2017の出品作家として、2年前より石巻に来る機会が増え、気がつけば今年の4月に引越しをしていました。それまでは千葉の柏市に住んでいました。千葉に8年。その前は水戸、その前は犬山(愛知)と、そもそも引越しが多かった。今回は妻がいるし、流石にリスクが高すぎて引越しは考えてなかった。ところが、リサーチのために石巻に何度か来るうちに、これは、引っ越さないと無理かもしれない!と思い始めました。何をしようとしたかといえば、石巻にギャラリー(多目的アートスペース)を作って、石巻の作家が運営していく仕組みを構築する。ちなみに私には実績があります。犬山と水戸に「キワマリ荘(多目的アートスペース)」をすでに立ち上げ、現在も代表が変わりながら運営されています。だからこそ、石巻にも!って話が私に持ち込まれるわけです。引越しを決意し、妻の説得に入ります。妻は元々私の作品のファンでした。今も一番のファンでフォロアーです。そんな妻を説得できない様では、他の鑑賞者を説得できるわけがない!ので作品の説明(なぜ引っ越す必要があるのか)を丁寧に時間をかけて話しました。正直に言えば渋々合意に取り付きました。アーティストは歴史にいかに名を刻むか考えながら行動します。もちろん、すぐに答えの出るモノではありません。とはいえ、何も考えずに作品を作っててもダメなのです。ーーー展示期間が終わりを迎えた頃、これからどうするの?帰るの?と、聞かれる様になりました。いや!?あの!?引っ越して来たんで!!。まだまだ皆んなの信用を得るために頑張らねばと思う日々。石巻の冬が来る。 


(2)なぜダメなのか考えてみる。


 前回、何も考えずに作品を制作するのはダメと言ったけど、なぜダメなのか考えてみた。全ての縛り(枠)にはルールがある。個、家族、街、学校、国、スポーツ、アート、漫才、マンガ、、、(名が最初の縛り)。自由とはルールの中にある。ルールの無い自由は自然。そうなったらバトルロワイヤル。弱肉強食。もはや集団を維持できないし、点数で競うこともできないからゲームにならない。目的を持って高め合うことができない。みんなで楽しく平和に生きて行くためにはルールはいる。話をアートに戻すと、作品を作るとき、どのジャンル(集団)に入り、どんなルールを守らなくてはいけないのかを知る必要がある。なぜか、そのジャンルの目的(可能性)を高めなくてはならない。そして高めた人の名が残る。歴史に名を残したいならこれしかない。ただ、ルールにとらわれ、こうでなければならない!と思った瞬間。マンネリズム、自己模倣に陥りやすい。こだわりや縛りは、時間が経つと心地よい。心の拠り所となる。鎖の自慢、不幸自慢が個性につながって行く。脅かすものを排除しようとすると、目も当てられない。結果、天然に翻弄されることになる。何しろ発見は枠の外にある場合が多い。やってる方も見てる方も飽きてくるから、少しづつルールも変わってくる。子供の頃に知った知識だが、有名な味噌ラーメンの宣伝文句「変らぬ美味さ」。しかし、何年か毎に味を少し変えているらしい。客が味に慣れ、飽きるから。ホントかウソかは問題ではない。なぜ心に残るのかが重要だ。普通に考えても、現状維持が一番難しい。何もしなければ、緩やかな死が待っている。少しでも上を目指して挑戦することが現状維持。そんなわけで、柔軟にルールを守ろう。 


(3)タブー アートでもタブーは無い様でたまにある。


作品批評で「これはダメだよ!」って言われて、ソレが道徳的なコトだと。金脈を発見した気になる。たまに、ソレに気づいてなくて、落ち込んでる作家がいると、パクりたい気持ちを抑えて教えてあげる(めったに、そういう場面に出会わないけど)。今では信じられないかもしれないが、20年前、評論家に「私はマンガやアニメの影響を受けて作品を制作している。」と話したら、それが記事に成った。マンガやアニメがアートにとってタブーだったからだ。今や、そんなコトは、どこ吹く風である。それが普通に成った。私が今取り組んでるタブーは、「作風を変える」である。ドローイング=線画(というジャンル)でそれなりに名声を獲得していて、40歳になった時、ペインティング=絵画を始めた。かなり色々な方に怒られた。「別にいいじゃん!」って思うでしょ。でも、作家や作品の商品価値って、そんなコトでガタ落ちするのです。「この人は、こういう作品!」と成ってたのに!、なんで変えるのか!。今死ねば歴史に残るとか言われたり。しかし、私は、以後の人生のモチベーションをとった。そして、もしこれがタブーなら、やり抜く意味はある。私の後を、道を使う人がいるかもしれない。とにかく進もう!と。私は、こういう考えを持っている。10年あれば何でもできる。努力の仕方や方法を間違えなければ、なんとかなる!。後は覚悟の問題だ。覚悟がなければ、言い訳ばかりして、詰めが甘くなる。覚悟があれば全て楽しい。今は40歳、あと10年は生きてるだろう。で、始めたんだけど、気づけば48歳。後2年じゃないか!!。怖い怖い。 


(4)作品の感想を聞かれる時がある。


 作品の感想を聞かれる時がある。そんな時、まずこう聞く。「あなたは、作家ですか?、趣味ですか?、作家志望ですか?」と。まず作家志望の場合は、では今現在は趣味ですね。作家になりたいなら、これから「志望」を付けないように言います。そして、作家か趣味かもう一度聞きます。趣味の場合、ただただ褒めます。初対面の時は特にそうします。嫌われたくないのではありません。作家は作品と作者の距離感が十分取れていて、客観視できますが、初心者は作品の批判、批評、感想でネガティヴなコトを伝えると、自分自身がダメ、存在がダメ、となり、最悪の場合、ただの悪口言いやがって!と成ってしまう。いやいや、あなたのコトを言ってるんじゃないんです。作品のコトを話してる。作品とあなたは違うんです!と力説しても声が届きません。ただ嫌われて終わり。この客観性は意外に難しい。若い時は、そういうトラブルを何度も経験しました。ゆえに、「作家です。」と、私の目を見て言える人にのみ、色々言います。例えば、作品の感想を言う時、あえて相手がイラつくコトを言う。すると、言い訳したり、別の話をしたり、時には激怒するときもある。正直、かなりのリスクを伴うので信用できる知人にしか言わないのだけれど、どんなにそこが作品として上手くいってなくても、本当にそれが自分の伝えたいコトだったら、変えないんですよ。で、次も同じコト言われて、凹む。でも変えない。それが個性。そしてこのやり取りで作品強度が上がって行く。鉄を鍛えるのと同じ。これは、まだ自分が分かってない人に使う手なんだけど、喧嘩してそのまんまってコトもある。これはもう、相手を傷つけただけだから、最悪です。だから信頼関係が築けたらって話になります。 


(5)「作品の行き詰まり」の対処方について 


「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えて見ました。ほぼ、達成感、マンネリ(自己模倣)による行き詰まり、でしょう。なので、初心に返る(自分は最初、何を表現しようとしていたのか。どんな目標を持っていたのか)。技術(思考)的変化なら、ズレ、抜き、足し、ねじれ。コンセプトを突き詰めて行く段階で、捨てて行ったモノがあるはず。本当は、面白かったり、気になってたアイデアでも、その時の目的に合わないから排除したものを、もう一度洗い直す(宝探し)。限界なら、作風変えるのもありだけど、鑑賞者がそれを望むなら、その人達のために作る。それが、嫌なら、家族のためと、制作することが望ましい。若い時は「自分のため」という自我エネルギーが全てのモチベーションに繋がっていくんだけど、歳を重ねると達成感が出てきて、そのエネルギーでは、モチベーションが維持できない。ってことに気がついてくる。そう成ったら、「誰かのために」っていうモチベーションに切り替えの時期。なので、行き詰まった作家に結婚を進めるコトがある。それを私は、「大人になったから」とは思わない。自分のため、他者のため、どちらも自分自身のためだ。人は自分の幸せ、気持ちいいコトを絶対に優先する。基本、川の流れや、転がる石と同じだ。目標をセットすると若干変えられるくらいだとおもう。日本のアーティストは達成目標がとにかく低い(それさえも達成困難な状況だから)。でもそれは、仕事として考えてないから。自己満足、自己治療の延長(覚悟決めれば、それも悪くない)。私から観ると、いやいや、もっと行けるよ、そのテーマで!と、思うこと多い。 


(6)写楽の線 今回は写楽の線について考えてみる。


私はドローイング(線画)作家でそれなりに評価を得ている作家であるので、当然いろんな線を研究した。その中で別格に凄いのが写楽の線である。もちろん世界中で、というう意味だ。写楽はどういう線なのか、一本一本で観た時は、何か足りない。短すぎるのか?細すぎるのか?、色のせい?わからない。とにかく、その結果、ゲシュタルトの影響で近くにある線(や色)を引っぱりこむ。すると当然その空間は歪み運動を続ける。その運動の連鎖が画面全体に広がる。その結果として、私には、写楽の首絵(ポートレート)が立体に見える。初めてそう見えた時は、自分の目を疑った。急にそう見えるように成ったからだ。他の浮世絵も見たが浮いて見えるのは写楽の首絵だけだった。顔の輪郭は黒では無く灰色。黒は、目、眉、髪で、上部が重く成るから、服の柄で黒を使い、散らす。顔の部品のバランスも凄い。顔は下から見上げてるのに、鼻は横からなど、部位の視点がバラバラ。とか、その鼻筋のラインはどこを描いたの?(この仕様は、鼻のラインだけではない。)これ、キュビズムじゃん。でもそうじゃない。これは、動いてる役者を1000分の1秒でとらえて描いているからこう成っている気がする。北斎の波の絵と同じ。それぐらいの瞬間を記憶できる(できた)。それがキュビズムっぽく成っている。究極なんだけど、描いてない線が見える。まあ、ゲシュタルトだけど(この技術は作品に生かしている)。まとめ、意図的に一本一本の線を不足にし、周りの線を引き込む。その関係性の力学で、線は空間的に立ち上がり立体に見え、部位のバランスが再構成され、私には振り返る役者が見える。 


(7)作品性と作家性というのがある。

 

作品性と作家性というのがある。日本人は「作家性」の方を重要視する。作家性って何?。簡単に言えば、作者の生い立ちである。日本人はゴッホが好きだが、作品より生き様の方が優先されている。別の言い方をすると、良い作品と作品的に優れてなくても有名人の作品ならば、有名人の作品の方が価値がある、というコト。逆にいうと日本人は作品を作品として見れない、というコトになる。さらに別の切り口で見てみる。グーグル検索でアーティストの名前を検索する。日本語検索では、作者のポートレートが多い。英語検索では作品画像が多い。日本人は好きな作品に出会うと「どんな人が描いてるんだろう!?。」と検索する。英語圏は「他にどんな作品があるんだろう!?。」と検索する。どちらが良いとか悪いとかではない。そういう国民性だというコト。かく言う私も日本人なので「作家性」を重視する傾向にある。実はこっちの方が楽。勉強しなくていいし、自分の好みの話で終わるから。でも、自分の好みに合わなくても、良い作品は評価できる様に成りたい。そのためには、勉強しなくてならない。ルールを知って、皆は何を一生懸命頑張ってるのか知りたい。そうなると、別の切り口で作品を見ることができる。ついでに他の特性をあげる。日本人がアートを本気で突き詰めると日常に成る。日常になれば、なんでもありに成るので解りにくい。デザイン、イラスト、グラフィックを極めて行ってもアートに成るとしたら、こっちの方が向いている。海外の作品は英語でできている。日本の作品は日本語でできている。当たり前だが、この違いを理解してない人が多い。言葉の文法で、モノの自立(自律)のさせ方が違う。結果、作品の成り立ちも違ってくる。 


(8)それを「愛」という。(終) 


アーティストについて。例えば、10万円と100万円のギャラの仕事が来るとする。デザイナーは予算の中で、自分の取り分をまず取り、残りの予算内で作品を作る。これは(社会人なら)当たり前のコトなんだけど、アーティストは違う。どっちも全力で作る。その結果は聞かなくてもわかる?そう赤字だらけになる。昨年夏のリボーンアートの作家も赤字に成った作家がかなりいたと聞く。特に若い作家はその傾向が強い。その反面、学校の先生やってる人は、研究費を使わないといけないから丁度いいって話もある。とにかく、アーティストはそう言う人種である。さて、今回が最後の寄稿になってしまったから、少し自分のコトを書いてみる。私には、所有欲があまりない。それは、思春期に全て無く成ったコトがあるから。その時から、「モノは人にとられる」と思い込み、それが、所有する恐怖に繋がる。他者からの贈り物も怖い。戻るべき場所、あるべき場所が無い。「人にとられないモノ、絶対に無くならないモノ」の探求をする日々。絵日記の様にドローイング(線画)を描き続ける日々。家が燃えて、全てが墨に成った時、その墨で絵を描く様な生活。それが生きるコトだった。とはいえ、そんな悲壮な時期もあっという間に過ぎ、そんなこともあったなあ、に成って行く年月。最近こう言われた。「人生かけてますね」「そうかな」人生かけてない人生ってある?、ああ「かける人生がもう無いのか」歳をとるわけだ。私の生きた時間が線に成って世界中に散っている。私も49歳に成る。烏の声と風の音。石巻の春を待つ。答え:私が探していたモノのは、繋がり広がり包む「線」と言う空間。別の言葉では、それを「愛」という。(終)

 






つつじ野(石巻かほく)2th:

750字(全9回) 20180201~20180329(毎週木曜) 


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(1)まるでマンガ 

(2)貧しいほど目の前は愛だけになる。 

(3)「死」と「機械」、魂の行方。 

(4)自己治療作品 

(5)キワマリ荘 

(6)中途半端(何にも成りきれない)な作品

(7)「真実」は美しい!? 

(8)ファウストはドイツ語で「げんこつ」 

(9)自分に上手に嘘をつく。 


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(1)まるでマンガ


 評判が良くて、もう一度「つつじ野」を、お願いしてもいいですか?と、言われた。貯金通帳の残高より、Suicaの残高の方が高い私は「いいですよ。」と即答。パスポートを更新するための費用が必要だったので、本当によかった。前回の8回で思っている事は、全部書いてしまったし、前の依頼は二ヶ月前に話があったので考える時間があった、が。今回(1回目)の締め切りは明日だ。さて、さて、>>>30分経過(何も出てこない。)>>>さあ、始めよう。私には悪霊がついているらしい。それも悪霊を喰う悪霊。首の無い人と目だけの人の2体。知人に霊的なモノが見える人がいて、私が学校の授業に講師として呼ばれた時に「怖くて教室に入れない」と授業を欠席した。逆に、私と話すと元気になる人も多いのは、憑き物が落ちた(喰われた)からか!?。見えない所で悪霊バトル。まるで少年マンガ。アーティストとしては「あり」だけど、幸せな結婚生活は絶対無理と言われた。信じるか信じないかはあなた次第です。人の幸せは満足度なので、貧しくても不自由でも不幸では無い。覚悟を決めて生きてゆけば満足度は高められる。貧しければ貧しいほど目の前は愛だけになる。確かに限界はあるが、、。こんな話もある、友達に騙されて(目が覚めたらスキー場だった)初めてスキーをした時のことだ。もう慣れたでしょ、帰りは上級コースで降りよう!。途中私は崖から落ちた。そして私は、あの「ゾーン」に入った。視界が白黒のスローモーションに成り、「あ、あの枝に腕を引っ掛けないと落ちる(死ぬ)。腕が少しずつ伸びる」と次の瞬間「ザザザー」と音がして枝にぶら下がっていた。救助されて、友達に掴みかかった。笑いながら友は言った。「有馬さんはマンガだから死なない。」信じるかどうかは、あなた次第です。 


(2)貧しいほど目の前は愛だけになる。 


前回のタイトルを「貧しいほど目の前は愛だけになる。」に、しとけば良かった、、と後悔していますが。今回は、どうしてそう思ったか、そのきっかけの話しをします。「運動靴と赤い金魚」と言う、イラン映画を観た。物語は、貧乏な家庭の少年が、妹の靴を無くしてしまう。その後、親に内緒で、兄と妹は靴を交換して学校に行きながら、靴を探す。そんな時、マラソンで2位になったら靴が賞品でもらえる事を知る。オチを言ってしまうとお兄さん、色々駆け引きをするんですが、一位になってしまう。そんな話。私はその映画を見ながら、ずっと泣いていた。もう、もうね、画面に「愛」しか映ってない。びっくりしました。かと言って、自分が同じ状況に成りたいかと問われれば「NO」です。思春期に色々あったコトが関係あるのでしょうが、「お金で買えないモノはない!!。」と思っています。「買う」と言う言葉がキツイなら「交換」でもいい。そう言う仕組みの社会を作ってきたんです人間は。って声高に喋っていたら、「それは、それ以外のモノを持っていいるからですよ。」と。そうかもしれない。と答えたけど、そんなモノがどこにあるのか見当もつかない。金で交換できないモノってなんですか?。愛ですか!?そんなモノ、疑ってはいけない信仰ですよ。お金の有る無し関係ない。コンビニの前で考える。おにぎりが欲しい。100円あれば簡単に手に入れることができる。では、金がなければ「おにぎり」は手に入れられないのか!?そんなことはない。お願いする、芸を見せる、何かと交換する、などなど考えればアイデアは色々出てくる。でも100円あれば、それを考えなくてすむ。めちゃくちゃ楽だ。そう言う効率の良い社会を作った。お金は無くても何とかなるとも思ってる。だからこそ、「お金で買え(交換)ないモノはない」と思っているのかもしれない。 


(3)「死」と「機械」、魂の行方。 


先日たまたまガンダムシリーズ(アニメ)を見ました。ガンダムって知ってます?。50代の男性は知ってると思うし、今のアニメの原点の一つです。物語の始まりは「人口爆発による宇宙移民、宇宙移民の独立戦争」なんです。なんですが。今どうなってます?現実の社会は!?少子高齢化の人口減少!!。中国でさえそれが始まっていると聞く。人は豊になると、そうなるのか、はたまた、福祉の政策のせいなのか!?とにかく。生まれて、自分とは、とか考えてしまって、生きた証とか言い出して、歴史に!だれかの為に!とか大忙しです。でもこれ寿命があるからで、それが命で、だからこその「美しさ」なわけです。花を愛でるのもそうです。別の角度から見てみる。死後の恐怖から仏教などの宗教が生まれ、死後の世界が誕生し、その過程で「霊」や「魂」が存在し出す。数ヶ月前、手術をすることになり、全身麻酔をかけました。まだ何も起こりません、なんか少しふわふわしてきました。腕の辺りがヒンヤリします。あ~なんか朦朧とし、、、、次の瞬間、映画でよくみるアレ。画面の中にみんなの顔。終わりましたよ~。「えっ」「うそ!」「こんな風に死ぬなら、何も無いし、何もできない。」死ぬの怖い!!。って思いました。人間も機械みたいにコンセント抜かれた感じに死ぬのか!。前に、死ぬならガンで死にたいと言ってる、お医者さんが多いと聞きました。色々準備ができるからだそうです。なるほど、と。何が言いたいかといえば、意識=記憶をコピーできる様になったら人は、「死」と「機械」とどちらを選ぶのか。マトリックス(映画)では、人間と機械の戦いでしたが、機械がそもそも元人間だったら!?どう感じますか。火の鳥の中に出てくるロビタ(ロボット)は元人間でしたね。そしてマトリックスの世界に動物はいない。 


(4)自己治療作品 自己治療として絵を描き始めた。


まず、始めにした事は、嘘をつかない事。知らない事を知らないと言う。無知を恐れない。素直。自分のマインドコントロールの訓練。これをすれば、勝ちはしないけど、負けも無い。作品にもそれが出てくる。当時はタブーのマンガの影響など話す。ほぼ無視。アートじゃない!」と言われる。エログロ!アウトサイダー!。気持ち悪い!!。なぜそんなモノを見せる!観なければいけない!。だが、めげないし、理由のない自信もあった。しかし、こう言う状態の症状は行動として正解だ。傷口を隠す労力を一生やってる余裕はない。そんなモノに使う時間も金も勿体無い。見せびらかして、日常にしてしまえ!!。そんなこんなで、犬山キワマリ荘(多目的スペース)を開設し個展を開く。その頃から、感動しました!。と、言う人が増えだし、泣く人も。その時思ったのは、そうか、自分の治療のために薬(作品)を作ってきたけど、私と同じ病気(気持ち)の人には効くんだ!ってこと。その人数はけして多くは無い。でも、必要とされている。その時の幸福感は今も忘れない。しかし、腕が良かったのか、特効薬の精度が上がっていく。と、どうなるか、効く人には効くけど、効かない人にはまったく効かない。ピンポイントの精度が上がりすぎてゆく。最終的には、結局、自分にしか効かなく成るし、達成感も出てきた。で、まあ、絵が描けなく成ったので、絵を描くの止めようかな、と思ったのも事実。なぜかって!?。絵を描き続けるために、不幸の連鎖に戻る人を何人も観て来たから。幸せに成るために絵を描いて来たのに、幸せなると、絵がかけない、、、、と悩む。本末転倒だ。しかし、思い出した。苦しかったから絵を描いたんじゃ無い!。絵が好きだったから、苦しかった時に絵を選んだんだ!!。それに気付ければ、もう大丈夫。 


(5)キワマリ荘 


1996年愛知県犬山市にキワマリ荘(犬山)が誕生する。8つの4畳半から成る2階建てのコーポで、多目的スペース。大家さんの許可を得て又貸しし、荘の名前変更の許可ももらい市役所に登録。私は貸しギャラリーで4回ほど「キワマリ荘」とういタイトルで、個展をしていたから、瓢簞から駒である。ただの文字を現実に存在させてしまった。当時私は、脱サラした27歳。そのキワマリ荘の中にアートドラッグセンター(ギャラリー)を設立し、そこでの個展「神の生活」(1996-7)が美術手帳のレビューに載った。それを見た、ワタリウム美術館(東京)のキュレーターが資料請求。三ヶ月後。どうなったか知りたくて電話。どちらさまですか?」と言われ、東京に行くことを決める。三度目くらいに新聞紙が支持体の作品を見てもらう。そして、展覧会が決まった。当時(今でも!?)の名古屋では革命だったと思う。貸し画廊10年、企画画廊10年、美術手帳のレヴューが載る、美術館(国内)で展覧会、作品買い取り、学校の先生。のレールが、作家が自分でギャラリースペースを持ち、美術手帳、美術館。飛び級したのだ。さらに、東京の展覧会の後、大きな海外の展覧会に招待される。作家が自分でギャラリー作って、自分で売り込み、海外の美術館で展示するところまで行ってしまった。他の若い作家が黙ってるわけは無く、次々に作家のスペースが生まれ、かなり貸しギャラリーが減ったと聞く。そして、水戸のキワマリ荘、石巻のキワマリ荘の立ち上げと、時は流れる。キワマリ荘は「あったら良いのに、無い場所」を作ること。行き場のないバラバラの才能(力、センス)を集める場所。毛利元就の三本の矢と言ってもいい。ここから世界に発信すると言う覚悟の砦。


 (6)中途半端(何にも成りきれない)な作品 


学生の頃、教室の窓から、トラック競技を観て思った。普通に皆と走ったら必ず負ける。ゴールに行けば良いなら、逆に走ればいいのでは?コレを美術に当てはめると、「技術を身につけていく」の逆、抜く。天才と馬鹿が紙一重なら、私は馬鹿側からの方が近い!はずだ。ならば「楽描き」を極めよう!!。個性は誰にでもある、同じような表現になっているのは、教育や道徳性による、固定観念や、共同幻想のためだ。全て疑え、自分を信じるな、何かを考えたり、思ったら、「どうして、そう思いたいか、考えろ!!」。もっと弱くなれ、もっと貧しくなれ。ある時、自分より不自由な人を見て救われた気持ちになった。あの人よりは幸せかもしれない。そう思った瞬間、その人が意図的にそれを表現として行動していたら、私はその人に「勇気と希望をもらったコトに成る。」これは衝撃だった。イジメられてる人が実は主導権を握っている。私がイジメられてやっているおかげで、お前はストレスを発散し、やっと生きていけるのだ。私は、頭が悪い。特に言語記憶がザルで、高校の時に「無能者」とか「なんの取り柄もないヤツ」と言われていた。そんなコトをずっと言われ続けた人間がどう成るか分かるだろうか?本当にそうだと思い込み、そう言う生き方をする。その人間の一発逆転が逆走だった。そして、考える。その中で導き出された私の個性は「中途半端(ずっと途中)」だった。そして、これを表現しよう。「中途半端な作品」は、時間をかけて、「中途半端を表現した作品」になってゆく。この違いは、とても大きい。そして、自己治療、癒し、存在理由、関系、と進んだ。バラバラだった心が、一つになり、個になり、他の個を理解するようになり、存在理由の必要としない木や石を受け入れるようになる。それからだろう、風景が美しく見えるようになった。


 (7)「真実」は美しい!? 


私にとって良い絵とは「真実」だった。そして、「真実」は美しいと思い込んでいた。描いてる時の真実は「その時」しかない。昨日とか、明日にはないし、比べられない。ゆえに、嘘の無い、いや、嘘が有ったとしても、それを受け入れた、真実を表現する事が重要。技術が有るとすれば、自己の真実追求技術。でもこれ、他者や過去の作品とも比較できない。その時の真実は、その時の自分にしか分からないから、後から作品観ても、「この時は、こんな気持ち」ね、だ。やっかいなのは、真実だからって、良い作品とも限らない!だって、その真実、自分にとってだし、他者に関係ないから。それでも、現状報告の作品表現は避けてた。例えば、「今、寂しい」とする。寂しい絵を描くのではなく、なぜ寂しいのか、どう寂しいのか、寂しいと内臓の調子はどんな感じなのか、それは、どうすれば、乗り越えられるのか、その方法は、、、」とを描いた。発表して、他者の感想を、できるだけ多く聞いた。気分の悪いことを色々言われたら、伝えたい事は、伝わっている。それが、ネガティブに伝わってるだけだ。好きとか嫌いとか。そんな事、関係ないくらいに、突き抜けてないから、傷口みたいに、触られると、ヒリヒリする。突き抜け方が足りないだけだ。突き抜けちゃえば、誰も何も言わなく成る。ダメだって言われても、やりたい事は、やる。そう言う意味で、他者の感想は大切だ。自分が何に「イラッ」とするか解る。そこがキモだ。取り入れる事ができる事は、全部取り入れる。でも、どうしても、止めたく無い事もある。それは、突き抜けるしかない。表現者だから、それだけで、終わったらダメで、新しい美意識の獲得とか、批評性(現代性とか社会性)とか必要になるけど、こう言う描き方する作家は、批評性の獲得に時間がかかる(経験者談)。 


(8)ファウストはドイツ語で「げんこつ」


 以前、私が大変お世話になった方から、お前は「ファウスト」を読め!!。と言われた。それは、自己治療的な作品が完成後、また作品ができるように成る人は少ないらしい。その少ない作家の代表の一人がゲーテであるらしい。当時(15年前)読んでも、よく分からなかったが、最近読んでみると、あら不思議。「なるほど、そう言うことか」。ファウストの第一部と第二部は全然違う。一部は魂を賭けて若返り、欲情に溺れ苦悩するだけだが、第二部が凄い。(第一部)ファウストは悪魔と、「時よ止まれ、お前は本当に美しい」と言ったら地獄に行く契約。これは、「人生に満足した」らってコトと解釈。(第二部)ついにソレを言ってしまう。メフィストによって、魂が地獄に運ばれる、その時、天使に救われるのだが、、ファウストは厳密にはソレを言ってない。「(将来)○○に成ったら、こう呼ぼう」って話で、実際はそう成ってない。完全に自然死。未来は、こう成ってほしい、そして、もし、そう成ったら、満足するだろう、、って話だから、「まだ、死にたくない!」に成る。ただ、「そうだけど、言った事は、言ったよね!」って言われれば、言った。この場面、ファウストは目が見えなく成ってて、作業の音だけが聞こえる。この事業をやり遂げるためなら「何してもかまわん!」みたいな事言ってる。最後まで「やなヤツ」なんだけど、これ本当は悪魔が「墓穴(終わり)」掘ってる音。メフィスト(悪魔)は言う、死ぬまで求めつづけ、結局最後まで何も握るコトができなかった。しかし、天使はココ(常に努力しつづけたコト)を評価し、魂の救済をする。作品性より、作家性を重要視する、日本人に受け入れやすい。うのなとなのまにまにせもしもしらずいのまふるふる(宇宙の中で、名に囲まれ誕生も死も知ることができず、今を積み重ねている)


 9)自分に上手に嘘をつく。


 愛とか幸せとかを問いにしても意味がない。「1+1=」の答えは「2」だけではない。1x2、4/2、0.5x4、二進数なら10だし。いくらでも答えは存在する。「2」はテスト製作者(常識、ルール)が正解にしていて、回答者は製作者の正解を「当てる(答える)」(クイズ)ゲーム。本当の答えは無限にある。そもそも=(イコール)とは何なのかを考えればわかる、同じであれば良いはずだ。「2」が答えになるのは、遠近法的な思考方法も問題になる。遠近法は消失点に向かって物体が小さくなる。消失点は画面全体にX(バツ)を描いた時の中心。この場合の消失点は人生(ゲーム)で言えばゴールや目的になる。人は若い時や若い人に目的を持てという。確かに目的を持てば人生設計が楽だ。ゴール(終わり)を設定すればそこまでの道のりを設計できる。夢ではなく目的に変えることができる。だからと言って、この考え方が正しいわけではない。幸せは幸福度で決まる。目的を持った生き方で満足できない人もいる。こういった人は、女性や旅人に多い。目的を持たなくても幸せ。目的を持たない目的と言い換えた方がわかりやすい人もいるだろう。実は私も若い頃は、目的や目標を持ってない人に対して、「持つべき!、なぜ持たない!」と浴びせていた。しかし、これは「目的を持たない人」が自分にとって真逆の存在であることへの恐怖だ。人は自分を平均(基準)にしてしまう。そして上下関係をつけてしまう。その生き方が正しいなら、私の生き方が間違ってるのか!?になる。そうではない。いろんな考え方や生き方がある。話が飛びすぎてしまった。始まりに戻す。問いの製作者が自分自身なら、答えは自分に聞くしかない。自分に上手に嘘をつく。<終>


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2017-11-04

鼠径ヘルニア(脱腸)と診断された件。




鼠径ヘルニア(脱腸)と診断された件。

女医に血を6カプセル採取され、何度も服を脱ぎ「吸って吸って」「頑張って」などと言われ、放射線を浴び続けるプレイをした。7800円だった。

間接照明だけの個室で、女医に上半身にゼリーを塗られ、棒状の器具でグニグニされ「吸って吸って」と言われ、最後におしぼりで上半身を丁寧に拭いてもらい、自分の心音をいろんな角度から聞くプレイをした。2800円だった。

作品のコンセプトとか、思考パターンの重要な要素に猫穴がある。どんなルール(縛り)にも猫が自由に出入りできるような穴を用意しておく。風通しを良くするため。まさか、自分の輪郭までボヤけるとは。猫ならぬネズミ。鼠径ヘルニア(脱腸)になるとは。

鼠径ヘルニア(脱腸)の初期って自覚症状が無くって、痛くも痒くも無い、なんかちょっと、下腹部のふくらみが、若干違うなぁ、気に成るなぁ。くらい。ただし、放置しておくとヤバい。そして直すには外科手術のみ。

腹腔鏡下ヘルニア根治術(4泊五日):
私の場合、左のヘルニアだが、触診で右も気になると言われた(多少自覚症状あり)。右もヘルニアになっていた場合、両方ともできる術式らしい(結局右は無かったが)。

入院前に、ドクターXを全部見た。流石に手術室に歩いて入った時は「お~これが!!」とキョロキョロ。術後すぐに主人公と患者が喋ってる時があるが、全身麻酔の後はそんなもんじゃない!!!。

全身麻酔。はぁい、何々入れます。「ボンヤリしてきました。」はぁい、何々入れます。「点滴の所が冷たい感じです。あ、クラクラします。」の後、気づいたら、よく映画やドラマで見る画面全体に人の顔が沢山出てくる感じで「終わりましたよ~。」だって。ーー本当に「死」が怖く(恐ろしく)なった。

全身麻酔の術後が大変だ。両足に一日中足首をマッサージする器具を付け、交互にプシュープシュー。左手に血圧計で最初は20分ごとにプシュー、終盤は2時間ごと。右手は点滴と指先のヤツ。見えなかったけど、2つくらい器具を上半身に付け。そして、尿道カテーテル(これが慣れない)。

尿道カテーテルを抜く時が、もうヤバい。「ゆっくり吐いてください。」す~、ふ~~~==★?!!!?^!!**^^==~~~~。ナニあの痛み!脳が初めての痛みについて行けない感じ。あまりの瞬間激痛だったので、後から思い出そうとしても思い出せない。癖になる痛みでは無い。

アホなコトに、手術前に風邪気味に成ってしまい。手術台の上で、麻酔師さんに「風邪気味ではないですか~」、と聞かれた時に「そうです。」と言ったので、ザワつき、あ~って言ってください。その時の喉の状況を全員で眺め、「大丈夫!」。あわや延期に成り掛けた。

全身麻酔がまだ効いてる時は、頭も体もスッキリしてたんだけど、麻酔が切れた来たら、風邪がぶり返して来て、発熱と頭痛が始まり、頭痛で寝れなかった。あんまり痛いので、看護師さんにアイス枕と飲み薬をもらう。腹筋が痛くて体を曲げれないので、介護ベットの背もたれを電動で動かし水を飲む。

よく病院で寝てる人って、水を少ししか飲まないんだけど、本当に、少しずつしか飲めない。え、こんだけしか減ってない!って思うくらい飲めてない。しかし、咳風邪じゃなくて良かった。腹部切ってたら、痛くて咳できない。ヤバいな時はフリスクで止めた。くしゃみ一回でテンカウント。

大部屋だったのだが、食事中にもう普通に看護師さんと患者がうんこ、尿、ガスの話をする。多分女性とウンコの話を普通にする機会はこういう場所しかない。長さ、硬さ、回数。なかなのプレイだった。

私の不注意は風邪気味だけではなく、前日に体力を付けないと、と「肉を大量に食った。」普段もそうなのだが、肉食うとほぼ便秘に成る。結果、術後便が出ずに腹にガスがたまり、パンパンに膨れた。普段なら問題ないが、痛くて力めない。これも最悪だった。

病院で、老人は70歳からの認識で、49歳(私)は、まだ若いからと何度も言われる。同室に大腸癌の手術を受けた方がいた。半年入院してる。70超えてからの半年を、ナニもない病院で過ごす。色々考える。

テレビ20時間で1000円は高い。多分、病院とかホテルって一台ずつ受信料を徴収されるから、しょうがないのかもしれないが、長期入院はワンセグ付きのdvd買った方が安い。

早期退院をした。病院のご飯を食べてると、本当に早く退院したいと思う。ネットは繋がってないし、イビキ凄い人いるし。志ん朝の落語大量にipodに入ってたから、本当に助かった。

全身麻酔後に、臍の下の毛は当然剃られてたが、右足の太ももの所に15x20cmの剃り跡がある。何か貼り付けたんだろうけど、イタズラだったら面白い。右手首の表に点滴の針を刺し、強力接着のシールで固定してるのだが、毛深い人は、剥がす時、かなりの罰ゲーム。

高額療養費制度」ってのがあるんだけど、これ「月締め」で、1月間の限度額制度。10月31日から入院したから、その日の発生した8700円は別会計。最初に知っとくべきだった。


後は、傷口が腫れたり化膿することがなければいい。
とりあえず、他は健康。



2017-09-19

Before-After 2017



Before-After




                  finish 




                   ↑




                   ↑






                  start


2017-07-22



リボーンアートフェスティバル 2017(2017/07/21~09/10)に参加。
http://www.reborn-art-fes.jp/



企画内で展覧会内展覧会、ガルバナイズ・ギャラリーを設立。

GALVANIZE (ガルバナイズ):有馬かおる

こういうイベントって終わったらどうなるの!?って思う人多いと思う。なので、終わった後も続いてく展示。今回は三段階に分けられる。1段階:引越をして石巻市民に成る。2段階:期間中の展示。3段階:この場所で多目的スペース(GALVANIZE gallery )を運営し、ノウハウを作り、私がいなくても運営が成り立つ状態にする。一段階目は、やり逃げ防止。同じ目線に成る。二段階目でグループ展にしたのは、展覧会内展覧会(内展覧会、、)と、入れ籠を作る。中の中は外とうい状態を作り地域と繋げ、フェスから片足を出す。三段階目は、期間が終わってからの話になるが、このフェスは10年続くと聞いた。ならば、今現在の若者(高校生とか)が作家として、企画者として戻って来て、何かするかもしれない。そんな未来を観ながらこの展示は、この「場」は生まれ落ちる。

グループ展参加チーム:
キワマリ荘(犬山)、水戸のキワマリ荘、パープルーム(相模原)、XYZ Collective (東京) 

http://galvanizegallery.blogspot.jp/search/label/GALVANIZE%20gallery%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A






2017-06-12

めも : 2017−06



PK(インド映画)、宇宙人一人が地球に取り残されて、帰るために、地球の神様にお願いをしていく。その過程で色んな神様が出て来きて、最終的には新興宗教とバトル。面白かった。


石巻では水の出し方が逆だ。下にすると止まり、上げると出る。引っ越してきた当時は千葉と逆だったので、よく間違えた。これは震災の時、上から物が落ちてきて、水が出しっ放しに成ったらしく、その後、現在の形に成った。と水道屋さんが言っていた。



大木裕之さんは、新しいコト、面白そうなコトに敏感に反応し行動する。展示の誘いを受けると「まだ、大木さんのアンテナに引っかかるのか!、頑張ろ。」って気持ちになる。出会って、もう20年くらい。

この展示だけで、2時間しゃべれる(笑)。
食事中に観るモノではない。



騎士団長殺し」読む。まず、こういった本は100円になるまで、粘るのだが、それまで生きてられるか?と思い、上下2000円で買う。まず、驚いたのが、第1部の本の栞紐が根元で切断されていた。凄い演出だ!と読んでいたのだが、2部は普通の栞紐だった。いたずらだ。これだから古本は面白い。

主人公が絵描きで、肖像画家。私がハマるに決まってる。集大成的に、今までのパターン、ネタがモリモリ。と思えば、ココは、前書いたからカットみたいな。読んでると、ずっと描きたいコトは変ってないんだなってコト解って勉強に成る。

主人公の男が、モテすぎる。って言われるけど、自分を好きに成ってくれる人は必ずいると思う。鈍感か好みが強い人は無理(でも、それが普通)。しかし、この主人公は選ばない。流れを受け入れてるだけ。受け身としての器。受け入れるコトで進む物語。

クラシック音楽。ウエストゲートパークも一話に一曲でてくる。その度に、イラっとするが、とても重要なんだろうとは思う。BGMのレイヤー。根底に流れる西洋の物語(構造)。対比と同期。







つづく

2017-03-15

最近のツイッターまとめ


ソードアートオンラインⅡ観る。面白かった。電脳コイル」以来の衝撃。前者や攻殻機動隊は現実の中でのバーチャルだけど、SAOは逆でマトリックス寄り。能動的マトリックス。VRによって、コレに近い現実が始まろうとしている。30年前、マンガやアニメが私にとってのリアルであったと同じ様に、

今はネットゲーム(VR)が、そうなっていく。それが日常の世界に成り、特撮やアニメの世界観の中で活動し、リアルで感動を与えてくれる場所に成る。間違いなく、そこに新しいアートの扉がある。現実とは何か、存在とは、情報とは、命とは。肉体(現実)と記憶(情報)、魂の場所。


VRで世界中の美術館を体験できるなら、たぶん私なら、現地に行く事は無いだろう。どうせ現実でも触れないし、作品が情報化されたら、拡大して、ゆっくり観察できたりするだろうし、購入も格安だろう。まあ、そこまで行くと、VRより、スタートレックのホログラムなのかな。違う技術だろうけど。


夢を観た。団地の中でのマラソン大会。だが、玄関開けて中に入って行く。中の人々は、ゴミの中で暮らす子供、痣だらけの女性、寝たきりのおばあさん、、、、。映画や小説で読んだり観たりした記憶だろう。ランナーは見過ごせなくなって走るのを止めると失格。後半は皆が憔悴しきっていて、

かなり人数も減った。ドアを開ける。薄暗い部屋、テレビの光と音。貧しさが臭って来る。こたつに女が入っている。目の下にクマを作った女の背中で子供がいて泣いている。左手は外に出ようとする子供を捕まえている。右手がこたつ布団の角をめくる、

全てを吸い込む真っ黒な穴。女が言った。中、観てみる?。足が止まる。中、観てみる?。ごめん、無理。」と答えてしまった。出口に私の靴は無かった。目が覚める。

100円で源氏物語あったから買った。いきなり美に関しての記述発見。夏目漱石の吾輩は猫である」にも美術のコトが書かれてるけど、前者は良い絵について、後者はオリジナリティについて言及している。関係ないけど、最近、平面作家が立ち上げる立体」感覚が琴線に触れる。平面作家建立物語。


会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ」源氏物語の一節。平安京ラッパー。


夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んであって、よい薫物の香のする扇に、きれいな字で歌が書かれてある。、、、、散し書きの字が上品に見えた。」ユーガッタメール。「惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。」視点の変化について行けないが、思った以上に面白い。


草間弥生をアウトサイダーアートにしたい歪んだ愛情と嫉妬。あのコンセプトストーリーと活動をそれで片付ける。最近のキャラモノだって、50年100年経って日本のアートを振り返った時、キャラ作品の代表作家」と検索して一番に出て来るかもしれない。戦略。ずっと現代洋画の国。




基本的に自分のコトしか発言しないので、内向きとか自己中とか言われる。私は世界や社会の一部、端かもしれないし中心かもしれない。個であるなら全でもある。個人の問題が社会や世界の問題に変った(すり替えた)時に爆発が起こるのは鉄板だ。


自己治療完治すると絵が描けなく成る。なので幸せから遠ざかる人がいる。自己治療だから絵を描いていたのではない。絵が好きだったから自己治療で絵を選んだ。コレに気づくの時間かかった。もちろんテーマやコンセプトは変る。でも絵が好きな気持ちは変わらない。だから、、。


個性は誰にでもある。ではなぜ同じ様な作品しか描けないのか。それは勉強をしてないからではなく、共通言語獲得のしすぎ。子供の絵が皆同じなのは、人生経験の差。なので素人でも大人(老人)が本気で描けば個性的な絵はできる。


もう少しで他者の意見何てどうでも良い「無我」に入れそう。久しぶりの感覚。日本人は普段、他者の目を気にしすぎて生きてるから、無我に成る事で本領を発揮できる。アメリカ人は真逆らしい。なんてことが、菊と刀」に書いてあったな。


新聞紙作品は、画像によっては絵の部分だけ拡大される事もあるし、新聞全体の時もある。これは(自宅)展示と同じ理屈、どこまでが作品(絵)か解らない。これはキャンバス作品にも繋がっていて、たまにネットで上(下)がカットされていたりすると、「よし!」と思ったりする。
これは人生自体もそうで、引っ越し」を作品にすると、どこまでが作品かもわからない。中途半端な作品ではなく中途半端(途中)を作品(コンセプト)にして行く成れの果て。新聞作品を展示すると皆、新聞の記事を読む。古新聞はその記事を知らない人にとっては新聞。絵がある事で永遠に新聞。




分けるコトが知るコト。問題と答えの間にあるイコールの意味。1+1=□、2は制作者の望んだ答えを導くだけ。1+1、1x2、8/4、、、、(10進法だけでも)無限。ラベル、縛りの解体と構築。問題と答えは同時に存在する。全ては始めからある。


アートの勉強しなくても、今の自分の気持ちをきちんと表現できればアートと繋がる。だって、今を生きてるんだから、ちゃんとした表現なら、今の社会や時代にリンクするに決まってる。次の段階に行く(言葉にする)時困るとは思うけど。


20年ほど前に、日常生活に展示を持ち込んだのが私(有馬かおる)で、展示に日常生活を持ち込んだのがミスターさん。ざっくり言えば、そんなイメージ。なので私は常時そこ(会場)にいる必要があると考えた。方や新聞紙、方やレシートにドローイング。それから、。


私は線上(アウトライン)の人なので、全てに触れているが、どれにも成れない性質。地図の輪郭。場所は無い。ソレが目標。個展で他者の作品を展示(2010)したり、http://kaoruarima.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301262222-1 http://kaoruarima.blog.so-net.ne.jp/(1/2)


だったら、作品出品せずにキュレーションだけすればいい。とも思うが、これが中途半端のなせる技。触れていたい。新聞作品と同じ。このあり方が落ち着く。生きてる間しか出来ない展示と、死んでからもできる展示。誕生から死の途中。始まりも終わりも知るコトができない。(2/2)


2017-03-08

全部ユニクロだよ。」って言われ、「自慢か!」って思った瞬間など



2年前、全部ユニクロだよ。」って言われ、「自慢か!」って思った瞬間、格差社会の到来を感じた。


ファンヒーター故障(8年目)。分解清掃。直る(原因:点火プラグの汚れ)。ネジが5つ余った。さすがに5つはヤバいか、、、バラすか、、、。


帰って来たヒトラー観る。ファンタジーとリアル(ドキメンタリー)のミルフィーユ。考えさせられすぎて、はきそう。こうして思考停止に持って行かれたら、打つ手無し。逃げて(離れて)観察。


新しいドラえもんの映画観てて、ノビタのママが可愛く思えてきた」と、つぶやいたら、妻にどん引きされた。


歳を重ねると、自分のため」より、誰かのため」の方がモチベーションが上がる。一般的に「誰かのため」の方が大人と成るが、それは単に、自分では上がらないだけ。他者のための方が上と言うわけではないのかもな。


素足の季節(トルコ):奔放な5人姉妹が家に監禁され一人ずつ結婚。末っ子が脱走計画。とにかく娘達が奇麗。トルコってそうなんだ満載。+好きにならずにはいられない(アイスランド):好きな人(鬱)のために中年童貞が、、、終わり方が深い。DCとマーベルばっかり観てたから新鮮で面白かった。


油断すると、油断した場所に縛られる。+暴力と愛撫」って、撫で方の問題?。+我思う故に我ありと思う我あり(もう一声は無理)。+図書館がダメな場所は、貧困が教育(知識、道徳)にも関係して格差が開く。+自分が楽しむ事が一番重要」ってプロが言ってる文末に「だって、趣味でしょ。」が見える。


絵が下手な時は、気持ちの方が前に出る。丁寧に時間をかければ、良い絵に成りやすく、味のある絵に成る。巧く成ると、鼻につく。技術で気持ちを描けるので、薄っぺらく見える。なのでワザと変な筆の持ち方したり、描き方したりして、気持ちを前に出す、気持ちでねじ伏せる感じにする。


若い作家のツイッターとかインスタとか観てると、スカイリム(PS3)を200時間もやってる場合じゃないな、とは思う。ちなみに、この数年色々やった、ファークライ3、ダークソウル2、ラストオブアスの順で面白かった。ゲームはバランスが大事。自分に合ったバランス。さて次は命がけのゲームだ。


私が言うのもなんだけど、何でもアートにするなら、逆にアートと言わない方が「カッコいい」と思えて来た。「文科系極道」。まあ、日本的な考え方ではある。アートにはルールやコンセプトがあるから。アートに寄せるために、プロジェクト」なぁんて言ってる俺がいる。


素、天然で制作活動してるイメージ否定しない。ただ、当時(90年代)の名古屋アートシーンを批判的にとらえた行動をし、世界に向けて発信している自覚はあった。好きだから絵を描く」だけで生き残れる分けないじゃん。対比は作品の中、作品と作者、作品と社会の間に必要。良い絵と作品は違う。


20代の頃、西洋美術の技術(言語)は無駄、邪魔と考え、捨てて行った。違うな、天才と馬鹿が紙一重なら、バカ側からの方が天才に近づけるはず!とハンドルを切った。楽描きこそアートの根本!的な。馬鹿側からのキワマリ。持たざるモノの思考。だがこれが、素、天然、アートじゃないに繋がってゆく。


クリーピー観る:この映画はヤバすぎる。あの終わり方でなければ、気がふれる。映画館で観てたら、途中退席して、ゲロったかも。黒沢清監督作品の中で一番好き。ハイ・ライズ観る:孤立した高層ビルの中にヒエラルキー(社会)を作ろうとする建築家。



卒展で、これ以上生産しても無意味な成熟市場に生い立ちと生活環境が創造させたコーヒー&ソーサー」って言うのプロダクト作品を作ったけど、絵を描くコトに関しては、そう言う閉塞感を全く感じてない。冒険探求。今頃誤植発見!カップ抜けてる。


ドローイングは作品と作者の距離感が近すぎるから客観的に作品を観れるまで放置。その期間は1年以上。何度も加筆し、5年後には65%は廃棄。良いと思える作品は何年経っても変らず良い。(今の)自分にとって良い(大切)と思える絵が、他者にとっても良いとは限らない(場合の方が多い)。



絵の選別(完成)について聞かれたので、こんな話をした。王国に美術大臣の席が空いた。王様が一人一人作品を観て行く。しかし、席は一つ。落ちた者は死刑宣告。合格するコトが重要ではない。その作品と死ねるか」ってコト。お世話に成った方に、鑑賞は殺し合い(真剣勝負)だ」ってよく言われた。



2016-11-19

最近、よく「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えた。など、、


ドローイングでは小乗と生きるコト、
ペインティングでは大乗と死ぬコトを意識。

ドローイングは作品と作者の距離感が近すぎるから客観的に作品を観れるまで放置。
その期間は1~5年。何度も加筆し、その期間に65%は廃棄。
いいと思える作品は何年経っても変らずに良いので、そう言う作品を展示する。
これは、金にならん完全に趣味の世界。



どっちかじゃないとダメみたいな世の中ホント生きにくい。逃げる、避ける」という選択を卑怯と言う社会も。恐怖をあおり、判断を鈍らせ、究極の二択に誘導する。



タブーは無い様でたまにある。作品批評で「これはダメだよ!」って言われて、ソレが道徳的なコトだと。金脈を発見した気になる。たまに、ソレに気づいてなくて、落ち込んでる作家がいると、パクりたい気持ちを抑えて教えてあげる。私は私で、現在進行中のタブーやぶりで精一杯。


最近、よく「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えた。

ほぼ、達成感、マンネリ(自己模倣)による行き詰まり。初心に返る、何を表現しようとしていたのか。技術(思考)的変化なら、ズレ、抜き、ねじれ。ここに来るまでに、捨てて来た技術の探り直し。限界なら、作風変えるのもありだけど、鑑賞者がそれを望むなら、その人達のために作る。それが、嫌なら、家族のためと、制作することが望ましい。子供の頃に知った知識だが、有名な味噌ラーメンの宣伝文句「変らぬ美味さ」。しかし、何年か毎に味を少し変えているらしい。客が味に慣れ、飽きるから。ホントかウソかは問題ではない。なぜ心に残るのかが重要。
日本のアーティストは達成目標が低い(それさえも達成困難な状況だからだが)。でもそれは、仕事として考えてないから。自己満足、自己治療の延長(覚悟決めれば、それも悪くない)。私から観ると、いやいや、もっと行けるよ、そのテーマで!と、思うこと多い。


日本人がアートを本気で突き詰めると日常に成る。日常になれば、なんでもありに成るので解りにくい。デザイン、イラスト、グラフィックを極めて行ってもアートに成るとしたら、こっちの方が向いている。


しくじり」ではなく意図的に失速したのだが、改めて始めると、思った以上に前に進まない。同年代有名作家と比較すればいい。何が違うのか一目瞭然だ。素(だけ)とアートを理解して制作するのでは、共感性(これ重要)も持続力も違って来る。間に合わないけど、勉強をするしかないから困る。


英語を英語として理解できて初めてコンテンポラリーアートが理解できる。脳内で日本語に変換しただけで、単語や行間にわびさび、よびつぎ、間、幽玄などの美意識が入り込んでくる。日本国内は、ほぼ翻訳アート(悪いとは思わない)。日本語脳で、英語のできない私はギャラリーに頼る。


美術館を手玉にとった男」観る:
30年間、名前や場所を変え贋作を作り続ける。発見されるが「寄付だから」罪に問われない。話題になり個展開催。有名に成り過ぎ、美術館に「贋作」を持って行けない。皆から「オリジナルを描けと言われる」。その彼が選択した道が凄い。なんかもう童話の世界。


カルテル・ランド」(ドキュメンタリー)観る。:
なんか観た事あるストーリーだと思ったら、デュラララ シーズン1(アニメ)の最後のカラーギャング抗争に似てた。こうやって敵の組織を吸収して行くフォーマットができあがってるんだろう。知ってっても、止められないのかもな。なので、ボーダーライン」(映画)の様な事に成って行く。


Gのレコンギスタ」(2014)観る。:
ガンダム系譜の一番の未来。絶望的に難解。なので、いきなり衝撃のラストシーンに行く。
主人公がいきなり富士山の山頂に向かう(それまではアメリカ、ヨーロッパの様な場所が舞台)。山頂に着く。普通なら、汗拭いて、乱れた髪の毛が風に揺れ、達成感の後のドリンク、、。そんなの無い、なぜならロボットに乗っている。そして、これから世界一周だ!」と、ロボットに乗って降りて行く。ロボットは「富野 由悠季の今までの仕事」ってコトだろう。この状況が良いとか悪いとか言ってない。これが「現状」ってことだろう。

このアニメ、ググると難解、失敗と出て来る。
分かる気がする。ストーリーがまったく理解できない、もしくは、しずらい。
たとえば、全て(人名、グループ、場所、建物、乗り物など)に(よくわからない)名前があり、(何の説明も無く)会話の中に、どんどん出て来る。その名前が、場所、人、乗り物か全然分からない。はっきり言えば、何がどうなってるのか分からない。
さらに、戦闘中に「なぜあの機体がココにある!」の後に「なるほど、、」で別のキャラが「そうだろっ!」っと、戦闘に参加して行く感じの場面(その間5秒ほど)。まったく状況が理解できない。
これ、テレビ放送で観てたら世界観についていけない。
ここで、富野 由悠季が「こどもの為に制作した。」っていうのをポジティブに考える。
すると、上記の様な、考え方をする大人に成るなってコトかもしれない。
すぐに答えを知ろうとするな、自分で考えろ。」と子供達に伝えたかったのかもしれない。


ラジオで、片思いは可愛く、両思いは奇麗に成る。と言ってた。以前、恋愛は才能、結婚は忍耐を鍛える。とも聞いた。


仮面ライダー ドライブ」観る:
最後に、敵と協力して神を倒すんだけど、これ、マトリックスにも、こんな未来もあったってコト。
前半が絶望的につまらないが、それを超えれば最高。
同族殺し、親殺し、自己否定が仮面ライダーの三要素なのだが、このキャラが主人公ではない!
斬新!。
主人公が車に乗ってるから、違和感はあったんだよね。
親殺し、神殺し、ライバル対決がみごとに割り振られてる。
人間vs機械モンスターが、
後半から機械モンスターを作ったモノ(親)vs息子と
機械モンスターを作ったモノ(神)vs機械モンスター。
最終回、親に勝ち、神に勝ち、まっさらな状態で、ライバル対決。
これを見終わった時、マトリックスも、こういう終わり方があったのか。
一神教では無理なのかもな。
だとしたら、このおさめ方は斬新だ。


バットマン対スーパーマン観る:
宇宙人(や神)でさえ、強い男=筋肉ムキムキって設定って、後どれくらい持つのかな。




同級生」というBLのアニメ観た。ライトな感じの。画面が、あだち充っぽいのか、かぐや姫っぽいのか?となりの山田君のほうか?。でもキャラは少女マンガ。あの独特の男の指の描き方。指が触れる場所の意識とか面白い。FREE観た、流石京アニ、水の表現力凄い。ベースにポニョあるのは解る。




数年で物が増えた。絵画関連本。私は、持っているモノが全て燃えてもいい、という感覚。思春期に全部無く成った事があるから。その時から、モノは人にとられる」と思い込み、それが、所有する恐怖に繋がる。他者からの贈り物も怖い。戻るべき場所。あるべき場所が無いからかもしれない。

人にとられないモノ、絶対に無くならないモノ」の探求をする。場所を作り、絵日記の様にドローイングをし、探りを入れる。私の生きた時間が線に成って残っている。家が燃えて、全てが墨に成った時、その墨で絵を描く。そんな状態だった、毎日毎日、わら半紙に鉛筆の線を引っ張った。それが生きるコトだった。

毎日引っ張った線が、世界中に散って行く。過ごした時間、過去の時間。生きた時間が分散してゆく。今日は、雨の音が愛おしい。50円セールで買った小説を何冊か読んだ影響か。



人生かけてますね」「そうかな」人生かけてない人生ってある?、ああ「かける人生がもう無いのか」歳をとるわけだ。


心の闇やトラウマ退治などの解体法を学ぶにあたって、京極夏彦の百鬼夜行シリーズをかなり参考した。曖昧な記憶(映像)を言語化し、別の角度から光を当て、解体する。今だと西尾維新の物語シリーズがそれに当たるんだろうなと、アニメ観ながら思う。


俺はウジ虫だ。だが、絶対に生き抜いて翼を手に入れてやる。と、かなり(20年以上)前の手帳に書いてあって、その生命力にちょっと「いいな」と思ってしまった。


批評が出来ると良いけど、感想しか言えない。そう言う人は、自分にしか描けない絵を追求するしかない。と、いうか、それしかできない。批評が理解できる人は、どんなモノでもアートにできるし、共感性も社会性も高い。解っているから、色々やってみるのだが、


水戸に引っ越した(2007年)直後の文章に、達磨の絵を描いた。
後に、一筆描きに成り、「うちはうち そとはそと のんじゃった」。自分にとって、線とは何かの答え。
達磨を針金で制作し空間的に成る。線の見える部分は氷山の一角で、紙の中や、空間に消えている。個を極めると他者性とか関係性に行き着く。この後、風景に「色」を確認。見えてしまうと、以前どのように風景を観ていたのか思い出せない。



2016-10-19

Before-After(1/2)



Before-After


                    ↑


                    ↑






2016-10-18

Before-After(2/2)



Before-After


                    ↑




2016-10-03

去年マリエンバードで」、ファウスト」、キャラだけがある世界、他



去年マリエンバードで」、ファウスト」、キャラだけがある世界、他



去年マリエンバードで:

ネットで色々調べるが、
これほど、あらすじ内容が違うのも珍しい。
ホントに、皆、同じ映画観てますか!?

しかしこれが、こそが私の理想。
観た人の観たいモノに成る。


天井の装飾、どこまでもフラクタルに続く。
鏡に映る装飾、絵に描かれた庭、扉のレリーフになってる庭の形、そして庭、
トランプの柄、ゲームに使う棒と、リンクしてゆく。
演劇の背景の庭、絵の庭、庭(映画の中の)、~を観てる人の連鎖が私にたどり着く。

演劇が始まっている。
劇中で、男が女をどこかへ連れて行こうとしている。

ここでいきなりラストに飛んでみる。
ロビーで、男と妻らしき女が、同じ様なシーンで幕を閉じようとしている。
この時のナレーションと、最初の演劇のナレーションの内容が重なる。
夫らしき男は、演劇を観ている。
最後まで観ると、2人追う事が出来ないとナレーション。

始まりに戻る。
演劇を、夫らしき男は観ている、が、講演後は映ってない、
だが、妻らしき女がそこにいる。
物語はそうして始まる。

無数にある平行世界と世界をつなぐ「キー」の多重のレイヤー。

夫らしき男」がゲームを二種類する。
1、3、5、7と棒を置き、抜いていく。
もう一つは、ポーカー。
見えているのは、自分の手持ちカードだけ。
夫らしき男」はどちらも必ず勝つ。
権力、支配力。
夫らしき男」は、父親や愛人かもしれない。

全ては、いずれ、立像や庭園の様に動かない過去に成る。」と、ナレーション。
中盤、男と妻らしき女は、男女の立像彫刻を観ながら、その状況を言いあう。
その後、夫らしき男が「実は、この男女は、、、」と真実を言う。
だが、それが事実だと言う証拠はない。

過去の(死んだ)モノの真実は無い。
観た人の観たいモノに成る。

この映画は、過去に成らないためにループし、物語を生産し続ける。
死なない映画。

あれ?、どっちにしろ、
観た人の観たいモノに成る。
ポーカーのプレイヤー。

>

今の感想:
あのループ空間の屋敷こそ「生」であり、
そこから女をつれて行こうとする男が「死(神)」。
ロマンチックな見方をすると、死神が恋をした話。


この映画は、ずっと(20年以上)観たかったが、観る機会が無かった。
レンタルも無いし、中古も異常に高いし。
ところが、最近ブルーレイで発売され(て)た!
はい、Amazon。

一番好きなのは、羅生門だけど、気分によってマリエンバード。
ブルーレイ裏表紙に「羅生門」をモチーフにしたと書いてある。
この世界から抜け出せるのは死ぬときだけ。
そんな映画。


ファウスト(第一部)(第二部):

ファウストの最後、「時よ止まれ、お前は本当に美しい」って、死にたくない」ってコトか。


(第一部)ファウストは悪魔と契約、
「時よ止まれ、お前は本当に美しい」と言ったら地獄に行くことに。
これは、「人生に満足した」らってコト。
(第二部)ついに、言ってしまう。
メフィストによって、魂が地獄に行こうとする、
その時、天使に救われる。

だが、だが、
ファウストは厳密には言ってない。
「(将来)○○に成ったら、こう呼ぼう」って話で、実際はそう成ってない。
死んだ魂の近くにメフィスト(悪魔)が居たから、
そういう流れに成ってるが、完全に自然死。
ただ、「そうだけど、言った事は、言ったよね!」って言われれば、言った。
今なら、裁判だ!

未来は、こう成ってほしい、そして、もし、そう成ったら、満足するだろう、、って話だから、
「まだ、死にたくない!」に、成る。

この場面、ファウストは目が見えなく成ってて、作業の音だけが聞こえる。
この事業をやり遂げるためなら「何してもかまわん!」みたいな事言ってる。
最後まで「やなヤツ」なんだけど、これ本当は悪魔が「墓穴」掘ってる音。
巧すぎる。

ゲーテは死ぬ時「もっと光を!」って言ったぐらいだから。
ホントは「格子戸を開けて」と続くらしいが、意味的に変らない。

メフィスト(悪魔)は言う、
死ぬまで、求めつづけた、追いつづけた、結局最後まで、何も握る事は出来なかった。
しかし、天使はココ(常に努力しつづけたコト)を評価し、魂の救済をする。
これ、好き。

作品性より、作家性を重要視する、日本人に受け入れやすい。
私は、行為(絵を描く)をしつづける事をアートだと考えている。
生き仏(座禅をしつづける)も、そうかな。
危険なのは、何でもアートに成る、日常でさえも。

ちなみに、私が読んだファウストは池内紀(訳)。
これも、去年マリエンバードで」と同じく、読んだ翻訳(本)によって解釈がバラバラのようだ。
例えば、「、、時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい、、」池内紀(訳)の「お前」とは何か!?の感じ方とか、
文そのものの意味もそう。

Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen! 
To that moment [that is, when he sees free men on free soil] I might say ― Stay, thou art so beautiful!

追記:
手塚治虫は「ファウスト」を21歳で描いてる。
ファウストの1部と2部をまとめてる!これは天才だって素直に思う。
「百物語」42歳、
ファウストが完全に日本の風土に置き換えられてる。凄すぎる。
さらに、メフィストが女性で、最終的に相思相愛に。
魂の救い方に、(恋)愛が関係して来る。

この本の解説で、ファウストがドイツ語の普通名詞だと「げんこつ」だと知る。
手塚治虫の20代と40代のコマ割りの変り方とか、マンガの歴史。

ネオ・ファウスト(未完、絶筆)、
「百物語」と同じでメフィストが女性。
1970年代の日本、内容は、原作の第一部がほぼ終了。で、
ここまで、取り上げなかった「ホムンクルス」を取り上げている。
これ、ホントに続き読みたい、、原作だって2部から面白く成る、、残念。

原作でも、唐突にでてくるからな「フラスコに入ったホムンクルス」。
人造人間の最初の記述(という記事を観たけど、探せなかった)。
なぜこの話を、ぶち込んで来たんだろう。
進化と文化。

「世界一美しい人へ」と描かれた黄金のリンゴは誰の手に、、、というギリシャ神話があるが、
パリスが「美女(アプロディーテ)、権力(ヘラ)、勝利(アテナ)」の中から美女を選び、
トロイヤ(トロイの木馬事件)戦争に成る。
この話が、ファウスト(全体的)に反映されている、第二部はヘレナ(美女)探しに行くし。
「百物語」、「ネオ・ファウスト」は、ファウストの満足(欲望)を三つの願いに変更している。
巧い!。

ちなみに、ゲーテが最後に恋(17歳の女性)をした場所はマリエンバードである。


45歳を超えた辺りから、間違いなく別のステージに強制移動する。
死」の捉え方の問題と、その美意識。

知人観てると、自分中心の思考だったのに、
子供(家族)が中心に成ったために、作風の変化が余儀無く。
とかもある。




ただ、キャラだけがある世界:

20年前(2000年頃)、マンガとアニメはアートでは無かったが。
私たちの世代は、日本ではマンガこそ芸術だ!と考え始めていた。
だからこそ当時は、アートの素材やネタとして、取り込む事が出来た。
だが、マンガが芸術と認知されたら、このジャンルは終焉する。
今や、美術館でマンガとアニメは認知され、クールジャパンの先頭に立つ。
美術館で展示されたモノがアートに成るなら、マンガとアニメはアートだ。

マンガとアニメが展示される。
何を観に行ってるのか。
マンガとアニメの中での巧さ、表現力の伝承と進化。
ストーリーや世界観の伝承と進化。
一枚の絵としてみた時、それは、全て断片だ。

主人公の絵がある。
それだけでは、成り立たない、ストーリーや世界観がある。
当然、それは知っていなければ成らない。
日本人は知っている。
海外の人は、勉強しなくてはいけない。
これは、日本にとっての現代アートと同じ。

キャラが自立特化し、ストーリーや世界観のないキャラも生まれる。
ただ、キャラだけがある。

絵(キャラ)の巧さ(キレイ、カワイイ、カッコイイ)は純度を増して行くが、
画面密度が薄く成り、美しさ」の喪失(出版物(量産)の可能性もあるか、浮世絵あるし)。

キャラが無くならないだけで、美術の流れとと同じだ。
この後、風景や人物を視点の変化、解像度の変化などで、色彩や構造に移るから、
西洋美術と違う流れで、同じ場所に行くのか。
視線誘導と思考レイヤー。

鑑賞者の中に、キャラに特化した絵に満足できない(飽きる)人が出て来る。
一枚絵の意味が再発見される。
切り取って、どう自立させるか。
それでも、キャラを保ち続けるか、、、、。


ソレが、顔やfaceに成る前のイメージに持って行く。
言葉に成る前のイメージ。
そうすれば、言葉(英語)の壁を越えられる。

死ぬまで生きる。
人は考える。
生きるコトに意味が必要になる。
言葉にして迷い悩む。


マンガとアニメ」と真逆の絵が補色関係として必要に成って来る。
マンガ家が、アートをディスればディスるほど強く成る(20年前までは立場逆)。
そこにしか、(絵に関して、だけど)日本にアートの必要性を感じない。
今やアートは、マンガにネタにされてる。

年を重ねると、(流行の)マンガやアニメでは、昇華できない「何か」が溜まって来る。
その層が、流れてくる可能性はある。
目も悪く成るし、集中力も無く成るし、、、。
手の中で鑑賞できるモノ、、、分かるなぁ。


梅ラボ観に行った。:
自分の立ち位置の不在。モニターで見る作品、モニターに映るツイッターに切り取られた作品画像。梅ラボの作品と自分とのちょうどいい距離。もの凄くやだけど、ジェネレーションギャップがあるかもしれない。私の上の世代にある「鉄」の様な。梅ラボ(達)は、境界(現実とデジタル)が曖昧。私は、距離は近いが別物。マトリックスの世界観は理解できる。が、何かそれ以上(以外)の繋がり方をしてる。幻覚を観た。風景がピクセル単位で崩れ、風に流された。たぶん、あの展示の影響だ。その時、風景を「一枚の写真(画像)」の様にとらえた気がした。甲殻機動隊(ネットにダイブ)や電脳コイル(ポケモンGO)的でもない。なんだ!?風景の捉え方の変化か?やばいな、チャンネル空けられたかな?そう言えば、キュンチョメさんも風景を画像処理する作品作ってたな。風景、モニターの風景、そこに電脳コイル(ポケモンGO)。普通に風景観てても+2レイヤー。妖怪(幽霊)足したら+3レイヤー。40歳で普通に風景観れた時、感動しすぎて、そこで完結させてしまった。レイヤー足せたのか!これは、面白い。


去年マリエンバードで(短):

どこまでもフラクタルに続く、天井の装飾。
鏡に映る装飾、絵に描かれた庭、扉のレリーフになってる庭の形、そして庭、
トランプの柄、ゲームに使う棒と、リンクしてゆく。
演劇の背景の庭、絵の庭、庭(映画の中の)、~を観てる人の連鎖が私にたどり着く。

全ては、いずれ、立像や庭園の様に動かない過去に成る。」と、ナレーション。
中盤、男と妻らしき女は、男女の立像彫刻を観ながら、その状況を言いあう。
その後、夫らしき男が「実は、この男女は、、、」と真実(嘘かもしれない)を言う。

過去の(動かない)モノの真実は無い。
観た人の観たいモノに成る。

映画が、過去に成らないためにループし、物語を生産し続ける。
観た人の観たいモノに成る。

無数にある平行世界と世界をつなぐ「キー」の多重のレイヤー。
この世界から抜け出せるキーとは何か。