2025-01-06

6つのテキスト >2025>今までとこれからの美意識について。

 

6つのテキスト >


1:FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art/20200715/

2: artrΦn について /20240112/

3:ドローイングについて:孤高小乗線表現/20241011/

4:FAUST IN MARIENBAD by artrΦn (関係性から縁起性へ) /20240701/

5:在日contemporary art/20240112/

6:れんこんのなか/20091106 /


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FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art:


思えば、私は作家性重視の生き方(ロードムービー)を選んだ。そして「アートとは何か。人とは何か。幸せとは何か。」を問い続けてきた。「私(人)の内と外」、「途中と永遠」、「社会との関係」を通して見える「私」。そして(私が死に、世界だけが残ったときに見える)人の在り方と生き方。


この作品(や場)は、

ファウスト(小説):生に執着し、努力し続ける行為。

去年マリエンバートで(映画):変化し続け終わらない永遠。

ミイラ肖像画:人の死と藝術による永遠。から影響を受けています。

この場(所)は、あなたにとって、始まったばかりですが、既に終わっていたり、未来で始まったりしています。形は在り方、生き方で変化し続けます、繋がり広がる線のように。


在り方:

1)線について

・空集の音の間に線は生まれ約束になる、約束は景に入り太極を持って風を待つ。

・手を重ねると線が生まれる。手を離すと線は消えるのではなく広がり、全てを繋げている。

2)人は「本来無一物」という空集合<空集の芽>を皆が持っている。

3)1)と2)より、外は外で、内は内で(共有)繋がっている。

・モノは視点や思いによって見え方が変化するが、本質は変わらない。

<うちはうちそとはそとのんじゃった>


生き方:

・ずっと途中で先端。

・生に執着し努力(変化)し続ける行為

・寿命(枠)があるから瞬間が美しい。

・日常(日々)の中の美しさ。

・何もない」の中にある美(愛)。

・太極思想

・形にならないモノのを要素(形)として作品にする。


まとめ:

形は在り方生き方で変化してゆく。

人(形)とは「何」だ。

人が生きるとは「何」だ。

<うのなとなのまにまにせもしもしらずいのまふるふる>

<FAUST IN MARIENBAD>

<The quest for Art>


/20200715/MISAKO&ROSEN個展より


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 artrΦn について /20240112/: 


窓の月、水の月、空の月 。点線面体宇宙今識魂縁空。識肉命縁魂。・ ー □ ◯ Φ  。即身仏(永遠の行為)という美意識。うとなとなのまにまにせもしもしらずいのまふるふる。うちはうちそとはそとのんじゃった。えんぎのかぜ いえのすみ あるをもつ。ふゆのきぎ あめのつぼみ そらがさく。ああ、常に「だから”何”だ」と声がする。


空集の音の間に線は生まれ約束になる。約束は景に入り太極を持って風を待つ。

風に吹かれた約束は広がり包み繋がり”ある”を知り”いま”と成る。


モノコトに起承転結は無くただ「いま」があることを愛する。結論を求めず、関係性を愛し、広がったり縮んだりする揺らぎのある「朦朧とした輪郭」を意識する。宇宙と空のように、空と海のように。私(あなた)は、ただ「ある」だけで、自分自身で「あり」、他(者)と繋がり、「いま」という広がりの中にいる。


生きながら死んで夢から醒め”あるいま”に感謝しゆっくり丁寧に楽しむ。

モノコトの”あるいま”を意識し愛で包みエンギ(縁起、演技)でとらえる。

二次元人であり三次元人でもある私であり今人であり人類であるコト。 

多分その先は表現ではあるが芸術ではないから人で止める。それとも、

ああ、背中で隻手の音がする。


意識は光と時間の影響を受けず波や点になり、私(あなた)になり草木山になる。私(あなた)と草木山が入れ替わる。私(あなた)と草木山が繋がる。風景の集合意識を絞り交換し交わりの魂を捉える。拡大し続ける宇宙魂の先端に”いま”が”ある”。

私(あなた)がいる。

私(あなた)は、存在し今を生きるコトを「ある」と言い、

私(あなた)は、その運動による放出エネルギーを「うつしい」と呼ぶ。

私(あなた)は、本来無一物という空集合(φ)を持つ。

私(あなた)は、その場所に必要な形に成って調和する宇宙。


山がある。目指す頂上。しかし果てしない。皆で丈夫な橋をかけよう皆が行けるように。ある人が言った。頂上が目標なら行き方はバラバラでいい。この方法だと稀に登頂成功者が現れる。ある人が言った。どの方法でもいいけど、登山行為の美意識誕生は有りや無しや。ある人が言った。山自体を無視。山とは何。重要なのは行き方ではなく足元にある。ある人が言った。山を知ることは山になるコト。山は私で、私は山。なら全て山で全て私とも言える。と、いうことは、、、、、終。だからこそルールがあり、名があり、肉体がある。個性が生まれる。人間讃歌芸術と調和芸術。世界と対話する意識芸術、自己と対話する認識芸術。形に意識を与え手触りで魂を探る芸術。肉と識の調和。縛りの中の自由。常に自由であるなら自然になる意味。絵画は魂の運動、彫刻は魂のフロッタージュ、写真は風景が観る魂。意識芸術と魂芸術。大切なのは好奇心とヒューマンエラー。

一生懸命に生きる”うつくしさ”と恐怖を好奇心で満たすコトだけが平等であり魂を育む風になる。


artrΦn (アートロン)/2009-/ : TRONプロジェクト(1984年に始まった坂村健によるコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクト)への共感にARTを加えた造語。アートのオープンソース制作プロジェクト。artrφnのφは空集合を表す記号とキュービット(量子コンピュター)の0と1の重ね合わせのイメージ。0と1は陰陽の関係でもある。 アート論。


3>


ドローイングについて:孤高小乗線表現/20241011


本当に伝えたいコトに必要な最小限の大きさ、色、線、技術の追及。

藁半紙、新聞紙は色や質が日々変化する無常。

画鋲で止められた場所は作品なのか画鋲は作品なのか紙ではなく線だけが作品なのか、

画鋲の穴から外の世界と繋がる日常。

何が作品でどこからが作品か分からない無我。

故に鑑賞する”その時”は過去も未来も無い”あるいま”を永遠に表現する。


本を読んだり音楽を聴いたり、お腹が空いたからご飯を食べる様に、

スタジオを持たず絵描きの絵は描かず楽描きを楽しむ。

名声とか金とかでは無く、誰にでも表現できる環境。

線を描くのでは無く、待って受けとる。

活け花の様に線を扱い枯れを味わう。

紙、筆、描などモノコト への感謝。

全て日常、全て趣味。


しごとはいきること しゅみはせいかつ


一休、一茶、良寛の書画に憧れた私の”うつくしさ”。

紙と線、魂と体、私と絵、鑑賞者と絵が魚と水の様に、

草木が風に揺れる自然さを持って縁起の中で姿勢を整える。

見えるモノとの距離や触れる行為により地美絵(ジビエ)をゆっくり丁寧に楽しく味わう。


山の線、雨の線、地の線、木の線、鉄の線、雲の線、火の線、

向き合う線、受け入れる線、祈る線、祓う線、、、、、。


昔々「君は文人でも禅僧でもないから只の落描きだね。」と言われたことがある。

今も変わらない、競技競争では無い、私は私に成るだけだ。

只の強がりか、切羽詰まってるのか、全部忘れて線を引く。

紙の上に余裕を持って呼吸する線が座っている。

ナスカの地上絵の広大さを持って、見ているモノに共振するように。

うつくしさの本質と意味を掴めるように。

作品が魂の鳥居に成るように。

モノコトの枯れを味わい感謝し楽しみ愛でる。


かれえだに あめのつぼみ そらがさく


地中で時間をかけてダイヤモンドが生まれる様に、最終的には地球も太陽に吸収されダイヤモンドに成る。その輝きは地球で命をまっとうした各々のうつくしさ。そのダイヤは神自身の指にでも収まるのか、他の誰かへのプレゼントなのか。それだけの話ではあるのだが。

いまある生きる行為をうつくしく。


4>


FAUST IN MARIENBAD by artrΦn (関係性から縁起性へ) /20240701/


現代美術、現代音楽、現代料理などの現代の美意識は縁起にある。線と線の間、音と音の間、味と味の間。消えて現れる間のモノコトの広がりと繋がり。マンガのコマとコマの間。ジョン・ケージの4分33秒と尺八のカスレやノイズの融合。聞こえない、見えない、食してない時の縁起感覚の広がりと繋がり。手を重ねると線が生まれる、手を離すと線は消えるのではなく広がり、全てを繋げている。極まれし線表現の形。


縁起を理解することで、資本主義的、中央主権的、遠近法的、二元論的なはっきりと輪郭のあるモノコトに囚われず意識する。それを理解する方法は日本語にある。日本語は縁起で成り立っている。例えば「愛してる」という言葉。誰から誰へと指定がなくても成り立つ。何故成り立つのか、それは縁起言語、その場の空気(関係)を形にした言語。だからこそ川が流れれば橋も私も流れる。この美意識を芸術へ取り込む。存在と所有を関係で縛り縁起で解く。


縁起は魂と関係している。脳は魂という舞台に遺伝や生い立ちで生まれた複数の意識が目的、いまある環境、一番大切なモノを天秤にかけ最適解(縁起)を求める。その最適解(縁起)が個々の肉体性能に縛られ個性(形)を持つ。それは内だけでなく外も同じ。また、アカシックレコードを信じるならば、脳にバグが起き記憶が無くなっても魂がそれを補う。脳以外による美意識。魂に近づく美意識。そこに”あるいま”という縁起を形にする美意識、それが縁起芸術(Dependent Co-Arising Art)。今はまだ関係性がとらえる縁起であったとしても。


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在日contemporary art/20241118/: 


以前、展覧会の仕事でアメリカに10日ばかり滞在し、最後の三日間はニューヨークに滞在した。到着した次の日から息苦しくなってきたがギャラリー巡りをしたら気分がスッキリして救われた気分になった。contemporary artはこの場所においてオアシスだった。この場所に住んでる人に必要だったから生まれた土着美術。だからこの場所に来ないと、contemporary artは作れない。そう考えると、他の土地での制作は不利になる。 


ニューヨーク(または似た都市)では生活してれば自然とできる作品だが、他の地域では必然性がない。では、どういうモチベーションでcontemporary artを作ってるのか。金、地位、名誉などか、この時点で差が開きすぎている。日本では文化も違いすぎて、別の名前になっている。在日contemporary artは現代美術や現代アートと名を変えて欲望と手を繋いでいる。 とはいえ日本という場所でcontemporary artをしてる人やギャラリーもあるが当然少数。最低限英語で思考し作品を作ることを求められる。文法による主語の立ち位置、文章構造まで英語と日本語は違う。例えば、日本は起承転結だが、英語は結から始まる。アートで言えば、なぜこの作品は現代のアートなのかを説明していく形をとる。ゆえにコンセプチュアルアートと英語圏は相性が良い。


英語圏のcontemporary artと同様に、日本の場所独自の美意識は存在している。小麦、牛乳、パン、バター などに腸から支配されつつある日本だが、それでも日本の美意識は面白いし美しいと思うから、再発見したり、膨らませたい。この美意識は、対西洋美術の対策で生まれた日本画とは違う美意識。音、味覚、思考を大地から切り離され、物質資源の少ない日本。しかし霊的資源は多い。そんなことを考えながら線を引いている。 


ひょっとすると、全てを日本化する日本人が、まだcontemporary artを日本化できていないのかもしれない。だとすれば、やれることは、そこにもある。例外として英語圏ではマンガ、アニメはジャポニズムとして回収、グラフィック、イラストベースのデザイン絵画は別の世界共通言語があると考える。日本からアートを考えると、日本独自芸術(アート)はマンガ、アニメなどに成り、出版社がメガギャラリーを作るかもしれない。そして、マンガ家が考えるアートが日本の現代アートになって行く。ワンピース(尾田栄一郎)に出てくるアトアトの実の能力(シュールであり何の役にも立たない)やルックバック(藤本タツキ)でマンガの背景を描くために大学に行って絵を勉強するなどだ。この辺までくると、アートとイラストの違いは何だって人がいるが、根本が間違っている。イラストもアートだ。比べるならイラストと現代アートの違い。


部屋で坐禅してたら、座布団の上にある筋膜ローラーが目に入った、これ坐禅してないか!?。これ”デュシャンの泉”と同じ理屈だ。これは凄いコトに気づいたと震えた。三日後、坐禅じゃ無いだろこれは!?。ってことは”デュシャンの泉”もアートじゃないのでは!?壮大な詐欺に付き合わされて、受け子をさせられているのかも。これがcontemporary artの始まりだとしたら。精神から物質へ、そしてその先の魂へ。

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れんこんのなか:


不自由は自由の海に有る浮き輪。キレイとは整理整頓。うつくしさとは調和。机の上を「うつくしくしなさい!」とは言わない。うつくしいと感じる時は、後になってから、その瞬間は、自分も含まれてるから。左脳と右脳、連想と例え、アレとソレが同じだと感じる事、感謝と恐怖、表現の始まり。答えは始めから存在する、問題の方が重要だ。イコールの存在が厄介だ、同じにするために、数にする事。THE SUN COMPLEX & HEALING BY THE MOON。こころ」と言った。観た人の観たいモノへ。自分にとってのモノコトではなく感じる。指で自分の顔の中の骸骨を触る、外なのに中にある。コマとコマの間、見えていないものを観るためには。見せたいモノは絵じゃなくて、その向こう。モノの形よりも、モノのあり方に美しさがある。物語。誰が描いても、何枚描いても、美しさは劣化しない。空集の音の間に線は生まれ約束になる、約束は景に入り太極を持って風を待つ。天才と馬鹿が紙一重なら、馬鹿側からが近いはず。よわくなる。楽描き。五感の0時0分0秒を目指す。それでも生きてゆかねばならない。ここから、はじめよう。しゃかはきのした、だるまさんはあなのなか。ふゆのきぎ、えださきにあめのつぼみ、そらがさく。しごとはいきること、しゅみはせいかつ。みらいはえだとねのさきに、いきることはかこもみらいも。ゆるしかんしゃいかりのさきわれ。うちはうちそとはそとのんじゃった。わとわとわ。うのなとなのまにまに、せもしもしらずいのまふるふる。日が暮れ、ご飯を食べる、食べたいうちは生きたいんだ!と、感じる?でも、そういう所に、しあわせ」とか「うつくしさ」とかの、始まりは在る。つづく。みること、きくこと、かんじること、遠近法を使わないで、あること。昔、人は役割しかなかったのだろう、それに対応できない人が、バカにされ弾かれた、外に出れば、自由と孤独の狭間に何が生まれる、今や逆転。スイッチではなくボリューム。多神を包む海。バランス。時=流+刻+間。過去が存在するから、未来が生まれる、過去と未来があるなら「今」は点になる、今」が無くなれば、過去に縛られ未来が消える。過去は記憶、宇宙は「いま」しかない。aとbの間を移動する、その移動時間を無駄と感じるなら、一時間が十分になっても無駄。アートは人が自然(風景+時間+空間)を所有するための行為。身を守り、勝ち所有し、自らが自然(神)に成る、しかし、区切る事によって生まれるモノは本来の姿ではないから、永遠に自然に到達する事はできない、それが、狙いか。名を付けて所有する、要らないモノは外に出す、気づけば自分以外はゴミばかり。いのち」は何を所有しているのか、何か所有したいのか、もともと「いのち」は調和だし。いざと言う時、何を守るか、何を選んだにせよ、善悪はない、後で迷いさえしなければ。覚悟さえ決めていればどんなときでも、幸せだったりするのかな。わたしたちは、いつも永遠のはしにいる。わからでようとして、わをおおきくしてる、でるためには、わになるしかない、それでも、れんこんのなかだけど。ひとはわのなかを、じぶんのものとおもう、まるいたまのまんなかに、せんをひいたら、どちらがじぶんのもの。せんじたいがじぶんだ、ときづいたとき、わからせんになる、それでも、れんこんのなかだけど。きらなきゃいっぽん、はながさく、となりのはなが、ちょっときになる。しあわせ。等間隔に刻むリズム。今思う、続ける事は難しい、特に現状維持は難しい。ぬくもり、あんしんかん、しんじて、うたがわず、いつか、わたしも、そとからか、なかからか、そして、ありがとう。と、


/20091106 /ZENSHI個展「れんこんのなか」より






一応>縁起芸術というジャンルはないです。私が考え、私が見つけようとしている私的美意識です。ただし、私が知らないだけで、すでにあるかもしれません。

また、そういった私的単語が頻繁に出てきてるかもしれません。あしからず。








2023-12-08

言葉の前についての考察:

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言葉の前についての考察:

今のアートは言語でできてるから言語が得意な人が有利。私は言葉になる前の何かを形にしたいけど結局言葉(記号)にしないといけない。それは大衆化や資本主義(金に変換)と関係あるけど。なるべく無視して生きてると金に困る。バランス大事。ん~才能の差異でしか無いのかもな。


これもっと細かく言うと、art は英語で、アートは日本語でできてる。ゆえに作品の自立性も変わってくる。日本語で考えるアートは英語圏ではジャポニズムで回収されやすい。それをわかった上で日本語でアートする場合、日本語(言語)の前に戻れば、世界に通用するのでは!って思考実験で作品作ってる。


言葉の前とは何かの一つの答えとして禅がある。不立文字。とはいえ東洋哲学なので結局は言葉での説明がいる。禅からの別出口として行為がある。禅問答は無常、無我、縁起の三本包丁で調理する。悟ったとしても、それをまな板の上に乗せなくてはいけないその結果再度捌く。終わりがない、から、


行為にしかならない。自立した作品にならない。結果私は、行為継続過程で生まれるモノを作品と称し展示。禅問答で問題なのは、回答者によって答えが変わることがあるだろうし、物理的縁起と言語的縁起で解釈が変わってくること。無常、無我、縁起に答えなんかない。結果は問題を作らないコト。作品は!?。


20年以上前に師匠的な人(犬山キワマリ荘大家岩田さん)から、ファウストと無門関(禅問答集)を読めと言われ読んだ。当時無門関は意味がわからないけど面白いって感じだったが、最近読み直したらさすが20年の歳月で分かることも出てきた。いくつか霞のように手がかりも思いつかないモノもある。


極め付けは最後の問題で、悟れないなら「少しをよく噛んでゆっくり食べろ」ってのがあって、あ、今それだ!って納得した。俺も岩田さんみたいにその人の人生の節目にポツンと指針になるような本や言葉を残せる人になりたなぁ。話がそれたが、生活や作品制作に悟りはいらんかもね。








2023-06-24

有馬さんって、見える人ですか!?

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先日、ADCのテーブルに置いてある私のDM(今MISAKO&ROSENで個展中)を見て、急に「有馬さんって、見える人ですか!?」え!?霊とかの!?「見えないよまったく」。え!?「これ、見える人の絵じゃん!」って話から、写真はどう見えるのかな!?と写真集見せたんだけど、「ヤバイ、ヤバイよ有馬さん、でもこれ分かる人いるかなぁ!?」って話で盛り上がった。

絵画のタイトルは「ホログラム(絵画)が見る風(景)」だから、近いといえば近い。







<メモ>

承認欲求は有限だが好奇心は無限だから、せめて40代で承認欲求クリアすれば老後は楽しいはず。のはずなんだけどなぁ。


2023-02-27

「線」や「存在(生きる意味)」の探求の柱:memo


<memo>


私は高校まで「バカ」とか「なんの取り柄もない」と言われていたし、中学の時に親が連帯保証人のために全て取られ、その時のドサクサで私の大切なモノは全て無くなった。また20歳の頃に家庭が崩壊したため実家がなくなり頼る者がなくなる。この3つのトラウマの克服が美意識に繋がっていく。


バカ問題は記憶のメモリー量と情報処理のスピードが人よりかなり劣っている事を意識した。これに関しては、天才とバカが紙一重ならバカ側からが近いはず!と、逆走を意識。例えば絵で言えば技術を抜く、写実より楽描き。メモリーで言えば多くを覚えるのができない(特に名詞)は共通因数の発見(本質、根本、コツ、流れ)の発見に重点をおいた。「とてつもなくよわくなる」という作品もそうだ。

所有欲については、お金で買えないモノ(買えるモノは取られる)の獲得を目指(目標)した(所有の恐怖も生んでいく)。プレゼント(交換)が苦手になる。家族の崩壊から、誰にも頼ることができない(失敗ができない)ので、今あるモノでなんとかして行く技術が向上して行く。目標を立てて動くより、今できるコトを最大限引き出す。


どうも、東洋と西洋の哲学を生きてる間に強制的に(つまみ食い)経験体験体得してサバイブ(生き残った)。

これらが、「線」や「存在(生きる意味)」の表現探求の柱になった。





そういえば、この間久しぶりに「卑怯ですね」って言われて、そうなんだよって話になった。ギャラリーにデザインした服置いてあって、売ってもいるけど展示でもあるから売れなくても良い。って話から。私は負けたくなかったから勝ちを捨てたところある。それがそのまま美意識に繋がってる。


前にあったのは、水戸の(マイクロポップ)搬入中にK.K.が美術手帖に載った「とてつもなくよわくなる」って作品見て「有馬さんは卑怯だよね。」って言ってきた。わかる!?って話で盛り上がった思い出がある。勝ち負けより「存在」したかった。「存在」を許して欲しかった。懐かしい。


赤面症で対人恐怖症で完全に治ってないけども、ギャラリーのオーナーを演じることでコスプレ(仕事)して現在の私になってるところがある。演じるコトは演劇をする特別な人だけじゃなく、みんなそうで、だから演劇は教育に必要だと思ってる。


資本主義はゲームで平等ではあるけど、公平ではない。親が資産持ってると有利だし、ダメ親(DV)とかだとマイナスからスタート。公平にするために宗教を使うのは「は~」としか思わん。だから格差が開くんだけど。だからこそ、そこではない場所で勝負(ゲーム)したい。それが私の場合はドローイング。紙と鉛筆だった。思い出した。













年配の写真家の方から君の写真は、写真家が面白いと思う写真だね。と言われ「それって、下手ってことじゃん!」「いや下手ならその一言で済むから。」って会話を経て、私が見てたティルマンスの写真集を、それ見せて、有名なの?と聞いてきて、どんな感想言うんだろと思ってたら、凄いね、絶望した。この人、写真の天上人ですよって言ったら、やっぱそうか、って。現代アート知らず、名前も知らなかった写真家を一撃で絶望させるってやっぱティルマンス凄いな。


写真家はやっぱり、光の話を本当に愛おしく話す。それも見るたびに私自身は輪郭の人だなと。輪郭は生命力の流れ(その流れは光が作る)。



”自然は美しい”と思って撮った写真と、”私は世界をこう切り取りました美しいでしょ。”って写真の違いはわかってきた。ざっくりいえば、あらゆる分野で後者は技術が必要で、前者は天然と言われる。両方持ってる人は天才と言われる。



ミシュランの⭐︎は、まず味の”うまい”は絶対必須だが、それは技術に裏付けされてる。うまければ良いじゃん!って人はこれで十分。⭐︎⭐︎は見た目(の調和)、皿とか込みで。逆の見た目だけで⭐︎はない。⭐︎⭐︎⭐︎は空間(の調和)か、コンセプト(ストーリー)で、実はカウント的には⭐︎⭐︎⭐︎以上がある。ゆえに⭐︎⭐︎⭐︎は深い。空間の演出は場所が関係する。風光明媚じゃない室内レストランはコンセプト(ストーリー)の演出で持っていく。長く星持ってる(歴史ある)場は西洋東洋問わず食器に品がある。ざっと見た感じ、⭐︎⭐︎の幅がある。⭐︎⭐︎⭐︎は相当難しい感じ。禅問答集の無門関で、悟れないなら、”少しをゆっくり丁寧に楽しむ。”みたいな事が書いてあるが、そんな感じの食事。動画でミシュラン見る時は、味がわからないから、視覚に集中できるのもある。逆に環境や味がわからないから、なぜ⭐︎⭐︎⭐︎じゃないのだろう!?。って思うところもあって深い。味のわからない奴の上から目線で、あれですが。


*:ミシュランの星の意味、1つ星(非常に良い)2つ星(訪れる価値あり)3つ星(特別な旅行をしてでも訪れる価値あり)

ホテルの場合;

1. ホテル自体が旅の目的地であり、その土地ならではの体験ができる 2. 素晴らしい建築とインテリアデザイン 3. 施設の個性やユニークな特徴を反映した独自性がある 4. サービスの質、快適性、メンテナンスが行き届いている 5. 価格に見合った体験ができる

20240307