2023-12-08

言葉の前についての考察:

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言葉の前についての考察:

今のアートは言語でできてるから言語が得意な人が有利。私は言葉になる前の何かを形にしたいけど結局言葉(記号)にしないといけない。それは大衆化や資本主義(金に変換)と関係あるけど。なるべく無視して生きてると金に困る。バランス大事。ん~才能の差異でしか無いのかもな。


これもっと細かく言うと、art は英語で、アートは日本語でできてる。ゆえに作品の自立性も変わってくる。日本語で考えるアートは英語圏ではジャポニズムで回収されやすい。それをわかった上で日本語でアートする場合、日本語(言語)の前に戻れば、世界に通用するのでは!って思考実験で作品作ってる。


言葉の前とは何かの一つの答えとして禅がある。不立文字。とはいえ東洋哲学なので結局は言葉での説明がいる。禅からの別出口として行為がある。禅問答は無常、無我、縁起の三本包丁で調理する。悟ったとしても、それをまな板の上に乗せなくてはいけないその結果再度捌く。終わりがない、から、


行為にしかならない。自立した作品にならない。結果私は、行為継続過程で生まれるモノを作品と称し展示。禅問答で問題なのは、回答者によって答えが変わることがあるだろうし、物理的縁起と言語的縁起で解釈が変わってくること。無常、無我、縁起に答えなんかない。結果は問題を作らないコト。作品は!?。


20年以上前に師匠的な人(犬山キワマリ荘大家岩田さん)から、ファウストと無門関(禅問答集)を読めと言われ読んだ。当時無門関は意味がわからないけど面白いって感じだったが、最近読み直したらさすが20年の歳月で分かることも出てきた。いくつか霞のように手がかりも思いつかないモノもある。


極め付けは最後の問題で、悟れないなら「少しをよく噛んでゆっくり食べろ」ってのがあって、あ、今それだ!って納得した。俺も岩田さんみたいにその人の人生の節目にポツンと指針になるような本や言葉を残せる人になりたなぁ。話がそれたが、生活や作品制作に悟りはいらんかもね。