2017-03-15

最近のツイッターまとめ


ソードアートオンラインⅡ観る。面白かった。電脳コイル」以来の衝撃。前者や攻殻機動隊は現実の中でのバーチャルだけど、SAOは逆でマトリックス寄り。能動的マトリックス。VRによって、コレに近い現実が始まろうとしている。30年前、マンガやアニメが私にとってのリアルであったと同じ様に、

今はネットゲーム(VR)が、そうなっていく。それが日常の世界に成り、特撮やアニメの世界観の中で活動し、リアルで感動を与えてくれる場所に成る。間違いなく、そこに新しいアートの扉がある。現実とは何か、存在とは、情報とは、命とは。肉体(現実)と記憶(情報)、魂の場所。


VRで世界中の美術館を体験できるなら、たぶん私なら、現地に行く事は無いだろう。どうせ現実でも触れないし、作品が情報化されたら、拡大して、ゆっくり観察できたりするだろうし、購入も格安だろう。まあ、そこまで行くと、VRより、スタートレックのホログラムなのかな。違う技術だろうけど。


夢を観た。団地の中でのマラソン大会。だが、玄関開けて中に入って行く。中の人々は、ゴミの中で暮らす子供、痣だらけの女性、寝たきりのおばあさん、、、、。映画や小説で読んだり観たりした記憶だろう。ランナーは見過ごせなくなって走るのを止めると失格。後半は皆が憔悴しきっていて、

かなり人数も減った。ドアを開ける。薄暗い部屋、テレビの光と音。貧しさが臭って来る。こたつに女が入っている。目の下にクマを作った女の背中で子供がいて泣いている。左手は外に出ようとする子供を捕まえている。右手がこたつ布団の角をめくる、

全てを吸い込む真っ黒な穴。女が言った。中、観てみる?。足が止まる。中、観てみる?。ごめん、無理。」と答えてしまった。出口に私の靴は無かった。目が覚める。

100円で源氏物語あったから買った。いきなり美に関しての記述発見。夏目漱石の吾輩は猫である」にも美術のコトが書かれてるけど、前者は良い絵について、後者はオリジナリティについて言及している。関係ないけど、最近、平面作家が立ち上げる立体」感覚が琴線に触れる。平面作家建立物語。


会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ」源氏物語の一節。平安京ラッパー。


夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んであって、よい薫物の香のする扇に、きれいな字で歌が書かれてある。、、、、散し書きの字が上品に見えた。」ユーガッタメール。「惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。」視点の変化について行けないが、思った以上に面白い。


草間弥生をアウトサイダーアートにしたい歪んだ愛情と嫉妬。あのコンセプトストーリーと活動をそれで片付ける。最近のキャラモノだって、50年100年経って日本のアートを振り返った時、キャラ作品の代表作家」と検索して一番に出て来るかもしれない。戦略。ずっと現代洋画の国。




基本的に自分のコトしか発言しないので、内向きとか自己中とか言われる。私は世界や社会の一部、端かもしれないし中心かもしれない。個であるなら全でもある。個人の問題が社会や世界の問題に変った(すり替えた)時に爆発が起こるのは鉄板だ。


自己治療完治すると絵が描けなく成る。なので幸せから遠ざかる人がいる。自己治療だから絵を描いていたのではない。絵が好きだったから自己治療で絵を選んだ。コレに気づくの時間かかった。もちろんテーマやコンセプトは変る。でも絵が好きな気持ちは変わらない。だから、、。


個性は誰にでもある。ではなぜ同じ様な作品しか描けないのか。それは勉強をしてないからではなく、共通言語獲得のしすぎ。子供の絵が皆同じなのは、人生経験の差。なので素人でも大人(老人)が本気で描けば個性的な絵はできる。


もう少しで他者の意見何てどうでも良い「無我」に入れそう。久しぶりの感覚。日本人は普段、他者の目を気にしすぎて生きてるから、無我に成る事で本領を発揮できる。アメリカ人は真逆らしい。なんてことが、菊と刀」に書いてあったな。


新聞紙作品は、画像によっては絵の部分だけ拡大される事もあるし、新聞全体の時もある。これは(自宅)展示と同じ理屈、どこまでが作品(絵)か解らない。これはキャンバス作品にも繋がっていて、たまにネットで上(下)がカットされていたりすると、「よし!」と思ったりする。
これは人生自体もそうで、引っ越し」を作品にすると、どこまでが作品かもわからない。中途半端な作品ではなく中途半端(途中)を作品(コンセプト)にして行く成れの果て。新聞作品を展示すると皆、新聞の記事を読む。古新聞はその記事を知らない人にとっては新聞。絵がある事で永遠に新聞。




分けるコトが知るコト。問題と答えの間にあるイコールの意味。1+1=□、2は制作者の望んだ答えを導くだけ。1+1、1x2、8/4、、、、(10進法だけでも)無限。ラベル、縛りの解体と構築。問題と答えは同時に存在する。全ては始めからある。


アートの勉強しなくても、今の自分の気持ちをきちんと表現できればアートと繋がる。だって、今を生きてるんだから、ちゃんとした表現なら、今の社会や時代にリンクするに決まってる。次の段階に行く(言葉にする)時困るとは思うけど。


20年ほど前に、日常生活に展示を持ち込んだのが私(有馬かおる)で、展示に日常生活を持ち込んだのがミスターさん。ざっくり言えば、そんなイメージ。なので私は常時そこ(会場)にいる必要があると考えた。方や新聞紙、方やレシートにドローイング。それから、。


私は線上(アウトライン)の人なので、全てに触れているが、どれにも成れない性質。地図の輪郭。場所は無い。ソレが目標。個展で他者の作品を展示(2010)したり、http://kaoruarima.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301262222-1 http://kaoruarima.blog.so-net.ne.jp/(1/2)


だったら、作品出品せずにキュレーションだけすればいい。とも思うが、これが中途半端のなせる技。触れていたい。新聞作品と同じ。このあり方が落ち着く。生きてる間しか出来ない展示と、死んでからもできる展示。誕生から死の途中。始まりも終わりも知るコトができない。(2/2)