2017-03-08

全部ユニクロだよ。」って言われ、「自慢か!」って思った瞬間など



2年前、全部ユニクロだよ。」って言われ、「自慢か!」って思った瞬間、格差社会の到来を感じた。


ファンヒーター故障(8年目)。分解清掃。直る(原因:点火プラグの汚れ)。ネジが5つ余った。さすがに5つはヤバいか、、、バラすか、、、。


帰って来たヒトラー観る。ファンタジーとリアル(ドキメンタリー)のミルフィーユ。考えさせられすぎて、はきそう。こうして思考停止に持って行かれたら、打つ手無し。逃げて(離れて)観察。


新しいドラえもんの映画観てて、ノビタのママが可愛く思えてきた」と、つぶやいたら、妻にどん引きされた。


歳を重ねると、自分のため」より、誰かのため」の方がモチベーションが上がる。一般的に「誰かのため」の方が大人と成るが、それは単に、自分では上がらないだけ。他者のための方が上と言うわけではないのかもな。


素足の季節(トルコ):奔放な5人姉妹が家に監禁され一人ずつ結婚。末っ子が脱走計画。とにかく娘達が奇麗。トルコってそうなんだ満載。+好きにならずにはいられない(アイスランド):好きな人(鬱)のために中年童貞が、、、終わり方が深い。DCとマーベルばっかり観てたから新鮮で面白かった。


油断すると、油断した場所に縛られる。+暴力と愛撫」って、撫で方の問題?。+我思う故に我ありと思う我あり(もう一声は無理)。+図書館がダメな場所は、貧困が教育(知識、道徳)にも関係して格差が開く。+自分が楽しむ事が一番重要」ってプロが言ってる文末に「だって、趣味でしょ。」が見える。


絵が下手な時は、気持ちの方が前に出る。丁寧に時間をかければ、良い絵に成りやすく、味のある絵に成る。巧く成ると、鼻につく。技術で気持ちを描けるので、薄っぺらく見える。なのでワザと変な筆の持ち方したり、描き方したりして、気持ちを前に出す、気持ちでねじ伏せる感じにする。


若い作家のツイッターとかインスタとか観てると、スカイリム(PS3)を200時間もやってる場合じゃないな、とは思う。ちなみに、この数年色々やった、ファークライ3、ダークソウル2、ラストオブアスの順で面白かった。ゲームはバランスが大事。自分に合ったバランス。さて次は命がけのゲームだ。


私が言うのもなんだけど、何でもアートにするなら、逆にアートと言わない方が「カッコいい」と思えて来た。「文科系極道」。まあ、日本的な考え方ではある。アートにはルールやコンセプトがあるから。アートに寄せるために、プロジェクト」なぁんて言ってる俺がいる。


素、天然で制作活動してるイメージ否定しない。ただ、当時(90年代)の名古屋アートシーンを批判的にとらえた行動をし、世界に向けて発信している自覚はあった。好きだから絵を描く」だけで生き残れる分けないじゃん。対比は作品の中、作品と作者、作品と社会の間に必要。良い絵と作品は違う。


20代の頃、西洋美術の技術(言語)は無駄、邪魔と考え、捨てて行った。違うな、天才と馬鹿が紙一重なら、バカ側からの方が天才に近づけるはず!とハンドルを切った。楽描きこそアートの根本!的な。馬鹿側からのキワマリ。持たざるモノの思考。だがこれが、素、天然、アートじゃないに繋がってゆく。


クリーピー観る:この映画はヤバすぎる。あの終わり方でなければ、気がふれる。映画館で観てたら、途中退席して、ゲロったかも。黒沢清監督作品の中で一番好き。ハイ・ライズ観る:孤立した高層ビルの中にヒエラルキー(社会)を作ろうとする建築家。



卒展で、これ以上生産しても無意味な成熟市場に生い立ちと生活環境が創造させたコーヒー&ソーサー」って言うのプロダクト作品を作ったけど、絵を描くコトに関しては、そう言う閉塞感を全く感じてない。冒険探求。今頃誤植発見!カップ抜けてる。


ドローイングは作品と作者の距離感が近すぎるから客観的に作品を観れるまで放置。その期間は1年以上。何度も加筆し、5年後には65%は廃棄。良いと思える作品は何年経っても変らず良い。(今の)自分にとって良い(大切)と思える絵が、他者にとっても良いとは限らない(場合の方が多い)。



絵の選別(完成)について聞かれたので、こんな話をした。王国に美術大臣の席が空いた。王様が一人一人作品を観て行く。しかし、席は一つ。落ちた者は死刑宣告。合格するコトが重要ではない。その作品と死ねるか」ってコト。お世話に成った方に、鑑賞は殺し合い(真剣勝負)だ」ってよく言われた。