2013-12-18

間と言うものを、考えてみた。他、



作品を観る。
何か、ピントが合わない。
ある部分がとても気になる。

とは言え、
その部分を加筆すれば、
全体のバランスを組み直さなくてはいけない。
なんとか、
今の雰囲気を、保ったまま、
ピントが合うように、成らないものか、、、と、、

先人たちの、画集をめくり、
画像を検索し、
首を左右に振ったりする。
我に返った。

何か、ペインターっぽく成って来たなぁ。

キャンバス作るのが、かなり疲れる、とか、
下地に、なんで、あんなに、時間と金をかけるのか、
とか、前よりは、分かるように成った。
絵を描くまでが、これほど大変だとは、、、。



好きなように絵を描く。
人に何か言われて、傷ついたら、
好きな事をする」覚悟が足りないと、さらに、もぐる。
そのうち、誰に何言われても、動じなく成る。

好きな事を、している、だけでは評価されない。
同じ様な人間が集まって、共感し、慰め合う。
突き抜けたって、同じだ。
基準が無いのだから。

だが、日本人は、作品性より、作家性を重視する。
よって、突き抜ければ、作家性や人間性が評価される。
そして、それに、作品が付いてくる。

そういう、やり方もある。
まったく、お金にならないから、時間がかかる。

ただ、皆が、何を思って、どこを指して、上手いとか、下手か言ってるのかは、
知っといた方がいい。



間と言うものを、考えてみた。
今まで、間は、見た人のみたいモノが観える。と、
考えていたが、
実は、みんな、同じもモノを観ているのでは、と、、、。

日本人なら、「ペン、机!」で状況によって、通じてしまう。
それは、先ほどの「ペン、机!」に、間をまとっているから、
ではないのか?
そして、その間が、何を意味するのか分かっている。

絵画もそうで、日本人の作品は日本語で、できている。
当然、間をまとっている。
そして、その間は、日本人なら、雰囲気で理解してしまう。
今で言うなら、icloudで、日本人が繋がっている。
共同幻想、共同意識、まあ、なんでもいいけど、
良くも悪くも、そういうことだろう。
何より、間は重要な美意識の一つだ。

これを、英語圏の人に理解してもらうのは、大変な事だ。
ほぼ、理解できないだろう。
だからこそ、
Japanでくくる。
それは、それで、面白いからだ。

英語圏で作品を流通させるためには、
作品を英語で制作しなくては、いけない。
いかに、間を排除してゆくか。

絵画の勉強も、英語の勉強も、ろくにしてこなかった、、
必要無いと思っていたから、
実際、最近まで、必要なかった。

ふぅ。
なんぎな話だ。

洋画(日本の)は、日本語でできている。
から、私の様なモノは、
こっちから、勉強した方が、理解しやすいのかもしれない。



アクリルで紙パレットを使い、
ある程度絵の具が盛り上がってくると、
絵の具だけ、奇麗にめくれる。
それ知ってから、紙めくってない。

また、めくれた絵の具の層が、面白く、
しばらく、何枚か保管していたが、
どうも、今の作風には合わないようで、
全部捨てた。


キャラが立ってると、
紙からキャンバスへの移行は、しやすいのかな。
キャラのある人は、立体制作すると、絵画技術が異常発達する。
苦労はすると思うけど。

私の場合、
紙からキャンバスへの移行は、失敗の連続で、
結果、全く違う感のある、作風に落ち着く。
これは、キャラ移植ではなく、
構造を移植したから、もしくは、しようとしてる。

キャラや、世界観の移植は、
金が貯まっては、挑戦し、失敗し続けた。
理由が分からないから、
キャンバスはあきらめていた。

いや、ピカソの絵が絵画として成立している以上、
ただの技術不足だな。

いや、まてまて、
私のドローイングの作風の背景は間であった。
何も描かない事が重要だった。

しかし、キャンバスでは、
背景(下地と言っても良い)が、異常に重要だ。
その事に、気づいたから、
キャンバスに向き合う事ができるように成った。と、
言っても良い。