2020-09-28

昔、「針金みたいなヤツ」だなって言われて嬉しかった。こと

 


一年ぶりにドローイングを描き始めた。1年間に50枚くらいの(わら半紙の)ドローイングは作っているのだが、久しぶりに向き合う。わら半紙を見つめて見えてくるものを捉える。その後、世界観を構築し、画面構成をして行く。ドローイングは作者との距離が近いので、最低でも1年の放置は必要だ。個人的には3年は必要。


できたドローイング作品は、人の手に渡るまでの間に加筆されたり破棄されたりして、年間50枚くらいになる。最後に「ピンと来る!」かどうかで判断(決め手)する。別の言葉だと「何も足せない、何も引けない状態」であるかどうか。


50歳を過ぎて思うことは、若い時は気付くと3時間とか過ぎていたのに、今は1時間だ。それぐらいしか集中力が続かない。で、それを3本(合計3~4時間)。30代は合計で9~12時間はできた。想像力の柔軟性も欠けてきてる。


10分経っても線一本引いてないことがある。その間、画面に現れては消える線と鬼ごっこしてるので、疲れることは疲れる。ただ、今までの蓄積があるので、判断の速度や思考の深さは、次の老いの段階(肉体的な衰え)が顕著になるまでは増して行くだろう。でも、もって5年くらいかな。


このシリーズは、自分が楽しむため、自分の想像限界を超えるために描いてるので、辛いし、楽しい。よくある最大の敵(自分)との対峙。完成しても、わら半紙に描かれてるので、セールスには結びつかない。わかっている。が、止めないし、個展にも出す。


30年前は一番安い素材だったから、わら半紙を使ってたんだけど、最近はコピー紙の方が安いので、意味が必要になって来て面倒だ。もう、慣れもある。でも一番の理由は時間によって変色してゆくことだろう(それも短時間で)。寿命があるから美しさ(瞬間の輝き)がある。ゆえに、セールスに向かないわけだが。


若い頃は、どうしてわかってくれない!!こんなに頑張ってるのに!!って思ってたけど。自分のため、自分が楽しむために描いてるから、それを望むのは間違ってる。みんなに支持されたいなら、それを考えたコンセプトや画面構成が必要。私が楽しむだけのニッチな技術の向上なんて誰も気にしてないし、必要ない。


そう腹をくくると、格段に絵が変わる(突き抜ける)。何か言われて傷ついてるのは突き抜け方が足りない。もっとワガママに自分と向き合う。社会とか、アート文脈とか関係無い。ただただ鉄を叩き刀を強くする。昔、「針金みたいなヤツ」だなって言われて嬉しかった。「細くてぐにゃぐにゃなのに折れない」って。さ。








私のブログで、警備員の時のブログが一番読まれてる。

5年前(2015)に警備員をしていた時のブログだ。

http://arimaworks2011.blogspot.com/search/label/%E8%AD%A6%E5%82%99%E5%93%A1


当時、私がこのブログを書いた時、ちょっとした話題になった。

恥ずかしくないの?とか、よく書けるね!みたいな感じだったと思う。


なぜ書けたのか、これは私は日常や生活がアートだと思ってる。アーティストとして警備員をする。パフォーマンスだ。これを拡大解釈すれば、「日常や生活がアート」になる。後は、覚悟の問題だ。何でも真剣にやれば面白い」って「よつばと(漫画)」でも言ってたし。覚悟がなければ、迷い、言い訳だらけの人生になる。実際、絵を描くだけが技術上場すると思えない。


交通警備員をして、空間感覚能力は飛躍的に伸びた。ぶっちゃけ、そのおかげでペインティングは異常に上達した。さらに、一年間マンション建設の入り口で仕事してたから、平地から完成までの工程を見れた。これは大きかった。絵画も建築も土台が大事で時間を掛けて丁寧に作業することを実感する。


私にとって、アートは人生や生活を豊かにするものだ。これは、自分にとって」と、他者にとって」の二つに別れる。が、どっちが優れていると、言うわけではない。私は、自分にとってが優先される。自己洗脳にアートを使っている。自分が幸せになるために。ただ、結婚すると、パートナーが幸せでないと、自分も幸せにならないから、強制的に「他者にとって」を学ばされる。