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「アートと教育」と「アートの教育」について:
先日、「今、アートと教育について考えててさ」って話してた時、若い作家に「有馬さん、教育してる自覚なかったんですか!?」って言われて、あ、そうだった!?と、絶句してしまった。んだけど、改めて考えると、それは修行と思ってた。その辺りで、日本のアートというか、私のしてきたアートって、、改めて考える機会になった。
石巻には、「コパン」という美術(教育)塾があって、私見ですが石巻の情操教育の大元締めみたいな塾で、名だたる人がそこに通ってる(た)。そこでは(多分)、「色々なモノの見方(考え方)」を学ぶ、同時にそれは「自分と向き合うコト」。これは今の学校教育ではないがしろにされている。
学校では主に「考えるな、覚えろ!」や「言われたコトをしろ」だ。言い方を変えると「ドリル方式」。一般教養、受験に役立つ。集団行動(役割をこなす)が得意になる。問題は、これができない人(苦手な人)が存在するコトだ。私がそうで、恐ろしいほど記憶力が悪い。これは一例だが、そういう人が出てくる。
弾かれた人(できない人)は「自分と強制的に向き合う」ことになる。ここでルートが二つに別れる。ドリルできる人、できない人。できない人は、社会に馴染めない人になり「馬鹿、使えない(無能)」のレッテルを貼られ放逐される。どの世界(美術、音楽、演劇、スポーツとか)にも2パターンの人がいることになる。できる人「社会性の強い(作品)」、できない人「内向性の強い(作品)」。
だが、ここで最初に戻る。一番大事な教育がされてない。「色々なモノの見方(考え方)」を学ぶ、同時にそれは「自分と向き合うコト」。だが、そのために、深度が無く表面的な作品が多くなる。そこで、大学が出てくる。今、美術大学では「この教育」をしている。その結果、
「色々なモノの見方(考え方)」を学ぶ、同時にそれは「自分と向き合うコト」だが、同時に「これがアートだ!」と勘違いが起こる。しかしこれは教育にすぎない。手に入れて、「その教養で何をしますか!?」が本題なのに。残念なことに、ここまでくると、日本社会の問題に成ってくる。格差社会の増長。だって、
ルールを作ってる人が「考えるな」って言ってるんだから。よって、日本のアート(美術)に対して一般的にこう思うだろう。「自分と向き合うコト」への憧れと嫉妬、と同時にこの社会に不必要なモノ。長く成ったけど、まとめると、美術(アート)による教育と、作家になるための修行は違う。が、
今、周りの若手には、教育と修行の過程を同時にやってるから、受けてる者からすると一緒になってるってこと。なので、石巻のコパンはこの町にとって重要な教育機関だから受け継ぐ人が現れるといいと思う。
ブルースリーだったか「考えるな、感じろ」は有名なセリフだが、これも考え抜いた結果だ。反射とは反復練習の結果なので、考えない訓練をしてれば当然「考えてない、感じる」を反射で行う。そうすると行動が読まれやすい。また、
学校の先生は「考えるな、覚えろ!、言われたコトをしろ」教育システムの元締めなので、それが正しい、これができない人は人にあらず、みたいになって教育してくる人が多くなる。思い出すのが高校の時の服装検査だ。夏休み明けに頭髪検査をする。
工業高校だったせいか厳しく「前髪は眉毛にかからない。耳横襟足は刈り上げ」だった。そこにある生徒が「モヒカン」にしてきた。ルールはクリアしていた!!。大騒ぎになった。大抵生活指導部の親玉は体育の先生(私見)だが、その先生と美術部の先生で論争勃発、、、
最終的に「高校生に相応しくない」で、丸坊主にされる。当時の私は、悪いヤツ(生徒)がいるなぁの感覚だった。でも今は違う、これは自由との戦いだった。自由はルールを破ることではない、ルールの中でどう自由に振る舞うか(戦うか)。考えて挑戦(批評)して、理不尽に潰された。
この間、チャーリーズ・エンジェル(2020)を観たんだけど、男の上司が引退、次の男の上司はすぐ死亡、そして裏切り。最終的に生き残った男は女性に味方した男だった。凄すぎる!。今時代は次のフェーズに移ろうとしている。ゆっくりだが確実に。その結果教育も変わってゆくだろう。
で、
じゃあ、作品を作るってなんですか!?ってなりますが、今回は教育と修行の話で終わり。
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(メモ)作品のゴールが、美術館ではなく、「家に飾る」なら、アートである必要はない。
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