針金で作った顔の立体作品について:
「うちはうちそとはそとのんじゃった」https://arimasunmoon.tumblr.com/post/861194080 を作ったのが始まり。複合的な理由で、そもそも線を空間的(水槽の中にある髪の毛のように)とらえていた。一筆書きで空間的に顔を描けた。見え(とらえ)方の問題。立体の線と影の線が複雑に絡み合う。「ある」って何!?ってこと。
「うちはうちそとはそとのんじゃった」https://arimasunmoon.tumblr.com/post/861194080 を作ったのが始まり。複合的な理由で、そもそも線を空間的(水槽の中にある髪の毛のように)とらえていた。一筆書きで空間的に顔を描けた。見え(とらえ)方の問題。立体の線と影の線が複雑に絡み合う。「ある」って何!?ってこと。
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新人の作家に多いのですが、展覧会で、いま自分の気になってるコトや新作を発表したい!!。ってなるんですね。でも、それ「自分」にとって新しいだけで、一般的には普通のコトかもしれません。その作者の「気付き」が社会にとっても新しい気付きなら、発表する意味はあります。しかし、個人的な気付きは(その作家の)ファンしか興味ありません。それ、お前の問題でしょ、俺に関係ないじゃん!。になります。逆に言えば、個人の気付きに「社会性」をまとえば完璧ってことにもなります。
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RAF2019市街地エリア(4):取材で二年前レンタル屋に「ツレがうつになりまして」が6本あった。先日確認してきたら、まだ5本あった。道路向こうに、もう一軒あるのに!。って話をすると、皆笑う。それは笑っていいことなんでしょうか!?この街は、まだそう言う場所なんですね。アートはよく「非日常を楽しむ」と言いますが、石巻の人達は、絶望の非日常を味わっている。そんな場所で、「アートは何ができるのか!?」は、ずっと考えています。 201907
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私は、日常とアートの区別が無い。ですが、全てが美しいのに。と、思いながらも、大切なモノは「一つ」とも思っている。また、太極思想に影響を受けている。陰中の陽、陽中の陰。陰極まって陽、陽極まって陰の考え方。私のテーマ「個の追求の果てにある他者性」もそんなところからくる。
私の生きた時間が行為が少しづつアートになっている。私が死んだ時、それら全てがアートになる。今の世はアート、美しさが肥大した世界。いっそのこと、日常がアートになったら、美しさは飽和に達し霧散。その後、蓮の花が咲く様に本当のアート(美)が現れるのでは、ないだろうか?そんなことを思う。(20190707)
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自由にはルールがある。ルールの中に自由がある。「私」と「公」の自由も違う。両極端な自由がぶつかった時どうする。お互いが命かけてたらどうする?中立や無関心が間に入ってぼかし、少数意見であることを明確にし、暴力に訴える人を司法に委ねる。もっと中立が増えればいいんだけど、無責任と言われるかもしれないが。
高校の頃今から30年も前の話し。校則が厳しくて、前髪は眉毛についてはいけない。横と後ろはカリアゲだった。夏休み明け、1人の生徒がモヒカンにして来た!。校則に違反してない!。文化系と体育系の先生の間でバトルが展開。最終的に生活指導(体育)の先生の「高校生らしくない!」でバリカンの刑。当時の私は、教室の隅で見てるだけだった。でも、とても感動した。
私にとっての自由には縛りが必要だ。縛りや輪郭のある世界で、どう自由に生きるか。
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山形藝術界隈がどうして市街地エリアに!?と質問があったので選出理由など。まず石巻の作家がメインでいるのはわかる。では、その作家が育ち目標とするシーンはなんですか!?。関東でも、関西でもなく東北のアートシーン。その東北のアートシーンに現れた新生が山形藝術界隈。
私の展示やキュレーションは分かりにくい、と言われています。それは、一点透視的思考のように消失点(目標、目的)があることを避ける。二極化を避ける。太極思想のように白の中に黒を入れてしまう。などがあります。ゲームでいえば、オープンワールドゲーム。実はこれ山形藝術界隈に似てるんです。
石巻の作家(市民)は文化や芸術の方向性を色々選べます。マンガ的、山形芸術界隈(東北)的、ART DRUG CENTER(自己治療)的?などなど、今回はこの辺でやめす。これが山形芸術界隈を選出理由。
前回、RAF2017で、パープルームや、XYZ collectiveの参加をキュレーターに見せた時、「パーなに!?、XYん!!?」って感じでした。今回は山形芸術界隈がそこのポジション。美術は物産展だと思っていて、今はNY産が人気。現在、界隈は東北でしか採れないアートをもぎたて販売している。
って言うと、界隈は個人でバラバラに色々なところで活動してるじゃないか!?って話になりますが、今回は「山形芸術界隈」としてRAF2019にエントリーしています。
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35歳までは、自分と向き合うために線(ドローイング)を引いてきた。自分以外と向き合うようになって線は引かなくなったけど、最近は師の言葉「線は必要なくなった時そこにあるのかもね」を実感している。日常全てが芸術になった時初めて本当の花(美)が咲く。
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