2022-11-29

<メモ>artrφn(アートロン)


<メモ>

artrφn(アートロン):(自己)表現の核

心の食(事)+

旨味の塊+

自産自消芸術+

ウルトラローカルアート+


Faust in Marienbad by the Room 0:00:00  


Faust in Marienbad by the Alterity at the End of the Pursuit of Individuality, and the Landscape Beyond, 2022



FAUST IN MARIENBAD by the Room 0:00:00  in Milano

2022dec
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私たちは、(川のように)あらゆるモノ(コト)に流れがあり物語が生まれる(可能性がある)と思っている。ゆえに並行世界の存在に行き着いてしまった。しかし、そんなモノ(コト)は無いと考える。一神教や一点透視図法によって、脳(人)は生きるために物語(始まりと終わり)を望むように 組み替えられた。そして、私たちは他者を理解し合うことを目標や善としていて、それをより繋げ広げようとしている。しかし、私はこう思う。人は「お互いに理解し合わなくていいように、自分のままでいられるように」繋がり広がっている。そう、モノコトに起承転結は無くただ「今」があることを愛する。結論を求めず、関係性を愛し、広がったり縮んだりする揺らぎのある「朦朧とした輪郭」を意識する。宇宙と空のように、空と海のように。私たちは、ただ「ある」だけで、自分自身で「あり」、他(者)と繋がり広がっている。 


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short:

モノコトに起承転結は無くただ「今」があることを愛する。結論を求めず、関係性を愛し、広がったり縮んだりする揺らぎのある「朦朧とした輪郭」を意識する。宇宙と空のように、空と海のように。私たちは、ただ「ある」だけで、自分自身で「あり」、他(者)と繋がり広がっている。 

shortxshort:

私たちは「朦朧とした輪郭」を意識し、広がりのある「今」が「ある」ことを愛する。

 

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FAUST IN MARIENBAD by THE ROOM “0時0分0秒の部屋”, 2022 
のタイトルの背景、作品の意図。


網地島に初めて行った時、この島には川が無い!?とわかった。それだと私の美意識「ゆく川の流れ」が使えない。と、こんな事があるんだ!と愕然として海辺で立ちすくんだ。思考が波に溺れかけ、意識を持っていかれそうになった時、ふいに、コレが写真なのか!と強く感じた。そして、この場所なら写真で作品ができると確信を持った。その「流れ」では無い何かの美意識は言葉より先に、「網地島で海を包むコトをテーマにする」作品として現れる。
時を遡って2009年の頃に「0時0分0秒」と言う存在(あり方)に気づき、気になってはいたが、何もできずに放置していた。今回の展示タイトルを考えてる時に、目の前に落ちてきて、写真と繋がり、時間や空間がすべて同時に結びつき解かれを繰り返し、常に始まりであり終わりのような渦が見え、そんな場所にしようと決めた。それは、別の言葉で表すと、「今」と言う認識の広がり(拡張)に繋がり、それを鑑賞者に体験して欲しいとプランを考えた。「今」とは瞬間ではなく無限に広がる時間と空間だと感じた時、会場の外に出て、風景(世界)を観たとき、今までと見え方が変わっている。

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ブルーピリオドのノーマークス篇が終わった。まあ、ガチでコレクティブに関わると、そのまんま、技術も経済もプロに直結してしまうから、学生である主人公がその範疇を越えない学びで離れることが決まっていたのかも知れない。そういう意味では、ベタではあるが、誰もが納得の締めくくり。


コレクティブは本当にいろんな種類が存在する。ギャラリーもそうだけど。国内向け、海外向けから始まって、デザインより、アートより、町おこしより、世界標準より色々ある。その中で主人公の”ある”学びのために、必要な既存のコレクティブを合成したノーマークスという集団キャラクター。


間違ってるのは、教師や学校じゃないのか!?」に対する答えがあったかは???な部分もあるが、家族と宗教。信じるコトとは。など、ハウルの映画やLGBTQシンギュラリティの先の家族とは、宗教とは、信じるコトとは、、と改めて考えないと。変化し続けるコトだから、それも踏まえて。



ファストアート