2018-01-27

つつじ野(石巻かほく) 

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つつじ野(石巻かほく):


750字(全8回) 20171207~20180128(毎週木曜) 


(1)来石 

(2)なぜダメなのか考えてみる。 

(3)タブー 

(4)作品の感想を聞かれる時がある。 

(5)「作品の行き詰まり」の対処方について 

(6)写楽の線 

(7)作品性と作家性というのがある。 

(8)それを「愛」という。(終) 


 

つつじ野:


(1)来石 


寒くなって来ましたが、話は夏に遡ります。リボーンアートフェスティバル2017の出品作家として、2年前より石巻に来る機会が増え、気がつけば今年の4月に引越しをしていました。それまでは千葉の柏市に住んでいました。千葉に8年。その前は水戸、その前は犬山(愛知)と、そもそも引越しが多かった。今回は妻がいるし、流石にリスクが高すぎて引越しは考えてなかった。ところが、リサーチのために石巻に何度か来るうちに、これは、引っ越さないと無理かもしれない!と思い始めました。何をしようとしたかといえば、石巻にギャラリー(多目的アートスペース)を作って、石巻の作家が運営していく仕組みを構築する。ちなみに私には実績があります。犬山と水戸に「キワマリ荘(多目的アートスペース)」をすでに立ち上げ、現在も代表が変わりながら運営されています。だからこそ、石巻にも!って話が私に持ち込まれるわけです。引越しを決意し、妻の説得に入ります。妻は元々私の作品のファンでした。今も一番のファンでフォロアーです。そんな妻を説得できない様では、他の鑑賞者を説得できるわけがない!ので作品の説明(なぜ引っ越す必要があるのか)を丁寧に時間をかけて話しました。正直に言えば渋々合意に取り付きました。アーティストは歴史にいかに名を刻むか考えながら行動します。もちろん、すぐに答えの出るモノではありません。とはいえ、何も考えずに作品を作っててもダメなのです。ーーー展示期間が終わりを迎えた頃、これからどうするの?帰るの?と、聞かれる様になりました。いや!?あの!?引っ越して来たんで!!。まだまだ皆んなの信用を得るために頑張らねばと思う日々。石巻の冬が来る。 


(2)なぜダメなのか考えてみる。


 前回、何も考えずに作品を制作するのはダメと言ったけど、なぜダメなのか考えてみた。全ての縛り(枠)にはルールがある。個、家族、街、学校、国、スポーツ、アート、漫才、マンガ、、、(名が最初の縛り)。自由とはルールの中にある。ルールの無い自由は自然。そうなったらバトルロワイヤル。弱肉強食。もはや集団を維持できないし、点数で競うこともできないからゲームにならない。目的を持って高め合うことができない。みんなで楽しく平和に生きて行くためにはルールはいる。話をアートに戻すと、作品を作るとき、どのジャンル(集団)に入り、どんなルールを守らなくてはいけないのかを知る必要がある。なぜか、そのジャンルの目的(可能性)を高めなくてはならない。そして高めた人の名が残る。歴史に名を残したいならこれしかない。ただ、ルールにとらわれ、こうでなければならない!と思った瞬間。マンネリズム、自己模倣に陥りやすい。こだわりや縛りは、時間が経つと心地よい。心の拠り所となる。鎖の自慢、不幸自慢が個性につながって行く。脅かすものを排除しようとすると、目も当てられない。結果、天然に翻弄されることになる。何しろ発見は枠の外にある場合が多い。やってる方も見てる方も飽きてくるから、少しづつルールも変わってくる。子供の頃に知った知識だが、有名な味噌ラーメンの宣伝文句「変らぬ美味さ」。しかし、何年か毎に味を少し変えているらしい。客が味に慣れ、飽きるから。ホントかウソかは問題ではない。なぜ心に残るのかが重要だ。普通に考えても、現状維持が一番難しい。何もしなければ、緩やかな死が待っている。少しでも上を目指して挑戦することが現状維持。そんなわけで、柔軟にルールを守ろう。 


(3)タブー アートでもタブーは無い様でたまにある。


作品批評で「これはダメだよ!」って言われて、ソレが道徳的なコトだと。金脈を発見した気になる。たまに、ソレに気づいてなくて、落ち込んでる作家がいると、パクりたい気持ちを抑えて教えてあげる(めったに、そういう場面に出会わないけど)。今では信じられないかもしれないが、20年前、評論家に「私はマンガやアニメの影響を受けて作品を制作している。」と話したら、それが記事に成った。マンガやアニメがアートにとってタブーだったからだ。今や、そんなコトは、どこ吹く風である。それが普通に成った。私が今取り組んでるタブーは、「作風を変える」である。ドローイング=線画(というジャンル)でそれなりに名声を獲得していて、40歳になった時、ペインティング=絵画を始めた。かなり色々な方に怒られた。「別にいいじゃん!」って思うでしょ。でも、作家や作品の商品価値って、そんなコトでガタ落ちするのです。「この人は、こういう作品!」と成ってたのに!、なんで変えるのか!。今死ねば歴史に残るとか言われたり。しかし、私は、以後の人生のモチベーションをとった。そして、もしこれがタブーなら、やり抜く意味はある。私の後を、道を使う人がいるかもしれない。とにかく進もう!と。私は、こういう考えを持っている。10年あれば何でもできる。努力の仕方や方法を間違えなければ、なんとかなる!。後は覚悟の問題だ。覚悟がなければ、言い訳ばかりして、詰めが甘くなる。覚悟があれば全て楽しい。今は40歳、あと10年は生きてるだろう。で、始めたんだけど、気づけば48歳。後2年じゃないか!!。怖い怖い。 


(4)作品の感想を聞かれる時がある。


 作品の感想を聞かれる時がある。そんな時、まずこう聞く。「あなたは、作家ですか?、趣味ですか?、作家志望ですか?」と。まず作家志望の場合は、では今現在は趣味ですね。作家になりたいなら、これから「志望」を付けないように言います。そして、作家か趣味かもう一度聞きます。趣味の場合、ただただ褒めます。初対面の時は特にそうします。嫌われたくないのではありません。作家は作品と作者の距離感が十分取れていて、客観視できますが、初心者は作品の批判、批評、感想でネガティヴなコトを伝えると、自分自身がダメ、存在がダメ、となり、最悪の場合、ただの悪口言いやがって!と成ってしまう。いやいや、あなたのコトを言ってるんじゃないんです。作品のコトを話してる。作品とあなたは違うんです!と力説しても声が届きません。ただ嫌われて終わり。この客観性は意外に難しい。若い時は、そういうトラブルを何度も経験しました。ゆえに、「作家です。」と、私の目を見て言える人にのみ、色々言います。例えば、作品の感想を言う時、あえて相手がイラつくコトを言う。すると、言い訳したり、別の話をしたり、時には激怒するときもある。正直、かなりのリスクを伴うので信用できる知人にしか言わないのだけれど、どんなにそこが作品として上手くいってなくても、本当にそれが自分の伝えたいコトだったら、変えないんですよ。で、次も同じコト言われて、凹む。でも変えない。それが個性。そしてこのやり取りで作品強度が上がって行く。鉄を鍛えるのと同じ。これは、まだ自分が分かってない人に使う手なんだけど、喧嘩してそのまんまってコトもある。これはもう、相手を傷つけただけだから、最悪です。だから信頼関係が築けたらって話になります。 


(5)「作品の行き詰まり」の対処方について 


「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えて見ました。ほぼ、達成感、マンネリ(自己模倣)による行き詰まり、でしょう。なので、初心に返る(自分は最初、何を表現しようとしていたのか。どんな目標を持っていたのか)。技術(思考)的変化なら、ズレ、抜き、足し、ねじれ。コンセプトを突き詰めて行く段階で、捨てて行ったモノがあるはず。本当は、面白かったり、気になってたアイデアでも、その時の目的に合わないから排除したものを、もう一度洗い直す(宝探し)。限界なら、作風変えるのもありだけど、鑑賞者がそれを望むなら、その人達のために作る。それが、嫌なら、家族のためと、制作することが望ましい。若い時は「自分のため」という自我エネルギーが全てのモチベーションに繋がっていくんだけど、歳を重ねると達成感が出てきて、そのエネルギーでは、モチベーションが維持できない。ってことに気がついてくる。そう成ったら、「誰かのために」っていうモチベーションに切り替えの時期。なので、行き詰まった作家に結婚を進めるコトがある。それを私は、「大人になったから」とは思わない。自分のため、他者のため、どちらも自分自身のためだ。人は自分の幸せ、気持ちいいコトを絶対に優先する。基本、川の流れや、転がる石と同じだ。目標をセットすると若干変えられるくらいだとおもう。日本のアーティストは達成目標がとにかく低い(それさえも達成困難な状況だから)。でもそれは、仕事として考えてないから。自己満足、自己治療の延長(覚悟決めれば、それも悪くない)。私から観ると、いやいや、もっと行けるよ、そのテーマで!と、思うこと多い。 


(6)写楽の線 今回は写楽の線について考えてみる。


私はドローイング(線画)作家でそれなりに評価を得ている作家であるので、当然いろんな線を研究した。その中で別格に凄いのが写楽の線である。もちろん世界中で、というう意味だ。写楽はどういう線なのか、一本一本で観た時は、何か足りない。短すぎるのか?細すぎるのか?、色のせい?わからない。とにかく、その結果、ゲシュタルトの影響で近くにある線(や色)を引っぱりこむ。すると当然その空間は歪み運動を続ける。その運動の連鎖が画面全体に広がる。その結果として、私には、写楽の首絵(ポートレート)が立体に見える。初めてそう見えた時は、自分の目を疑った。急にそう見えるように成ったからだ。他の浮世絵も見たが浮いて見えるのは写楽の首絵だけだった。顔の輪郭は黒では無く灰色。黒は、目、眉、髪で、上部が重く成るから、服の柄で黒を使い、散らす。顔の部品のバランスも凄い。顔は下から見上げてるのに、鼻は横からなど、部位の視点がバラバラ。とか、その鼻筋のラインはどこを描いたの?(この仕様は、鼻のラインだけではない。)これ、キュビズムじゃん。でもそうじゃない。これは、動いてる役者を1000分の1秒でとらえて描いているからこう成っている気がする。北斎の波の絵と同じ。それぐらいの瞬間を記憶できる(できた)。それがキュビズムっぽく成っている。究極なんだけど、描いてない線が見える。まあ、ゲシュタルトだけど(この技術は作品に生かしている)。まとめ、意図的に一本一本の線を不足にし、周りの線を引き込む。その関係性の力学で、線は空間的に立ち上がり立体に見え、部位のバランスが再構成され、私には振り返る役者が見える。 


(7)作品性と作家性というのがある。

 

作品性と作家性というのがある。日本人は「作家性」の方を重要視する。作家性って何?。簡単に言えば、作者の生い立ちである。日本人はゴッホが好きだが、作品より生き様の方が優先されている。別の言い方をすると、良い作品と作品的に優れてなくても有名人の作品ならば、有名人の作品の方が価値がある、というコト。逆にいうと日本人は作品を作品として見れない、というコトになる。さらに別の切り口で見てみる。グーグル検索でアーティストの名前を検索する。日本語検索では、作者のポートレートが多い。英語検索では作品画像が多い。日本人は好きな作品に出会うと「どんな人が描いてるんだろう!?。」と検索する。英語圏は「他にどんな作品があるんだろう!?。」と検索する。どちらが良いとか悪いとかではない。そういう国民性だというコト。かく言う私も日本人なので「作家性」を重視する傾向にある。実はこっちの方が楽。勉強しなくていいし、自分の好みの話で終わるから。でも、自分の好みに合わなくても、良い作品は評価できる様に成りたい。そのためには、勉強しなくてならない。ルールを知って、皆は何を一生懸命頑張ってるのか知りたい。そうなると、別の切り口で作品を見ることができる。ついでに他の特性をあげる。日本人がアートを本気で突き詰めると日常に成る。日常になれば、なんでもありに成るので解りにくい。デザイン、イラスト、グラフィックを極めて行ってもアートに成るとしたら、こっちの方が向いている。海外の作品は英語でできている。日本の作品は日本語でできている。当たり前だが、この違いを理解してない人が多い。言葉の文法で、モノの自立(自律)のさせ方が違う。結果、作品の成り立ちも違ってくる。 


(8)それを「愛」という。(終) 


アーティストについて。例えば、10万円と100万円のギャラの仕事が来るとする。デザイナーは予算の中で、自分の取り分をまず取り、残りの予算内で作品を作る。これは(社会人なら)当たり前のコトなんだけど、アーティストは違う。どっちも全力で作る。その結果は聞かなくてもわかる?そう赤字だらけになる。昨年夏のリボーンアートの作家も赤字に成った作家がかなりいたと聞く。特に若い作家はその傾向が強い。その反面、学校の先生やってる人は、研究費を使わないといけないから丁度いいって話もある。とにかく、アーティストはそう言う人種である。さて、今回が最後の寄稿になってしまったから、少し自分のコトを書いてみる。私には、所有欲があまりない。それは、思春期に全て無く成ったコトがあるから。その時から、「モノは人にとられる」と思い込み、それが、所有する恐怖に繋がる。他者からの贈り物も怖い。戻るべき場所、あるべき場所が無い。「人にとられないモノ、絶対に無くならないモノ」の探求をする日々。絵日記の様にドローイング(線画)を描き続ける日々。家が燃えて、全てが墨に成った時、その墨で絵を描く様な生活。それが生きるコトだった。とはいえ、そんな悲壮な時期もあっという間に過ぎ、そんなこともあったなあ、に成って行く年月。最近こう言われた。「人生かけてますね」「そうかな」人生かけてない人生ってある?、ああ「かける人生がもう無いのか」歳をとるわけだ。私の生きた時間が線に成って世界中に散っている。私も49歳に成る。烏の声と風の音。石巻の春を待つ。答え:私が探していたモノのは、繋がり広がり包む「線」と言う空間。別の言葉では、それを「愛」という。(終)

 






つつじ野(石巻かほく)2th:

750字(全9回) 20180201~20180329(毎週木曜) 


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(1)まるでマンガ 

(2)貧しいほど目の前は愛だけになる。 

(3)「死」と「機械」、魂の行方。 

(4)自己治療作品 

(5)キワマリ荘 

(6)中途半端(何にも成りきれない)な作品

(7)「真実」は美しい!? 

(8)ファウストはドイツ語で「げんこつ」 

(9)自分に上手に嘘をつく。 


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(1)まるでマンガ


 評判が良くて、もう一度「つつじ野」を、お願いしてもいいですか?と、言われた。貯金通帳の残高より、Suicaの残高の方が高い私は「いいですよ。」と即答。パスポートを更新するための費用が必要だったので、本当によかった。前回の8回で思っている事は、全部書いてしまったし、前の依頼は二ヶ月前に話があったので考える時間があった、が。今回(1回目)の締め切りは明日だ。さて、さて、>>>30分経過(何も出てこない。)>>>さあ、始めよう。私には悪霊がついているらしい。それも悪霊を喰う悪霊。首の無い人と目だけの人の2体。知人に霊的なモノが見える人がいて、私が学校の授業に講師として呼ばれた時に「怖くて教室に入れない」と授業を欠席した。逆に、私と話すと元気になる人も多いのは、憑き物が落ちた(喰われた)からか!?。見えない所で悪霊バトル。まるで少年マンガ。アーティストとしては「あり」だけど、幸せな結婚生活は絶対無理と言われた。信じるか信じないかはあなた次第です。人の幸せは満足度なので、貧しくても不自由でも不幸では無い。覚悟を決めて生きてゆけば満足度は高められる。貧しければ貧しいほど目の前は愛だけになる。確かに限界はあるが、、。こんな話もある、友達に騙されて(目が覚めたらスキー場だった)初めてスキーをした時のことだ。もう慣れたでしょ、帰りは上級コースで降りよう!。途中私は崖から落ちた。そして私は、あの「ゾーン」に入った。視界が白黒のスローモーションに成り、「あ、あの枝に腕を引っ掛けないと落ちる(死ぬ)。腕が少しずつ伸びる」と次の瞬間「ザザザー」と音がして枝にぶら下がっていた。救助されて、友達に掴みかかった。笑いながら友は言った。「有馬さんはマンガだから死なない。」信じるかどうかは、あなた次第です。 


(2)貧しいほど目の前は愛だけになる。 


前回のタイトルを「貧しいほど目の前は愛だけになる。」に、しとけば良かった、、と後悔していますが。今回は、どうしてそう思ったか、そのきっかけの話しをします。「運動靴と赤い金魚」と言う、イラン映画を観た。物語は、貧乏な家庭の少年が、妹の靴を無くしてしまう。その後、親に内緒で、兄と妹は靴を交換して学校に行きながら、靴を探す。そんな時、マラソンで2位になったら靴が賞品でもらえる事を知る。オチを言ってしまうとお兄さん、色々駆け引きをするんですが、一位になってしまう。そんな話。私はその映画を見ながら、ずっと泣いていた。もう、もうね、画面に「愛」しか映ってない。びっくりしました。かと言って、自分が同じ状況に成りたいかと問われれば「NO」です。思春期に色々あったコトが関係あるのでしょうが、「お金で買えないモノはない!!。」と思っています。「買う」と言う言葉がキツイなら「交換」でもいい。そう言う仕組みの社会を作ってきたんです人間は。って声高に喋っていたら、「それは、それ以外のモノを持っていいるからですよ。」と。そうかもしれない。と答えたけど、そんなモノがどこにあるのか見当もつかない。金で交換できないモノってなんですか?。愛ですか!?そんなモノ、疑ってはいけない信仰ですよ。お金の有る無し関係ない。コンビニの前で考える。おにぎりが欲しい。100円あれば簡単に手に入れることができる。では、金がなければ「おにぎり」は手に入れられないのか!?そんなことはない。お願いする、芸を見せる、何かと交換する、などなど考えればアイデアは色々出てくる。でも100円あれば、それを考えなくてすむ。めちゃくちゃ楽だ。そう言う効率の良い社会を作った。お金は無くても何とかなるとも思ってる。だからこそ、「お金で買え(交換)ないモノはない」と思っているのかもしれない。 


(3)「死」と「機械」、魂の行方。 


先日たまたまガンダムシリーズ(アニメ)を見ました。ガンダムって知ってます?。50代の男性は知ってると思うし、今のアニメの原点の一つです。物語の始まりは「人口爆発による宇宙移民、宇宙移民の独立戦争」なんです。なんですが。今どうなってます?現実の社会は!?少子高齢化の人口減少!!。中国でさえそれが始まっていると聞く。人は豊になると、そうなるのか、はたまた、福祉の政策のせいなのか!?とにかく。生まれて、自分とは、とか考えてしまって、生きた証とか言い出して、歴史に!だれかの為に!とか大忙しです。でもこれ寿命があるからで、それが命で、だからこその「美しさ」なわけです。花を愛でるのもそうです。別の角度から見てみる。死後の恐怖から仏教などの宗教が生まれ、死後の世界が誕生し、その過程で「霊」や「魂」が存在し出す。数ヶ月前、手術をすることになり、全身麻酔をかけました。まだ何も起こりません、なんか少しふわふわしてきました。腕の辺りがヒンヤリします。あ~なんか朦朧とし、、、、次の瞬間、映画でよくみるアレ。画面の中にみんなの顔。終わりましたよ~。「えっ」「うそ!」「こんな風に死ぬなら、何も無いし、何もできない。」死ぬの怖い!!。って思いました。人間も機械みたいにコンセント抜かれた感じに死ぬのか!。前に、死ぬならガンで死にたいと言ってる、お医者さんが多いと聞きました。色々準備ができるからだそうです。なるほど、と。何が言いたいかといえば、意識=記憶をコピーできる様になったら人は、「死」と「機械」とどちらを選ぶのか。マトリックス(映画)では、人間と機械の戦いでしたが、機械がそもそも元人間だったら!?どう感じますか。火の鳥の中に出てくるロビタ(ロボット)は元人間でしたね。そしてマトリックスの世界に動物はいない。 


(4)自己治療作品 自己治療として絵を描き始めた。


まず、始めにした事は、嘘をつかない事。知らない事を知らないと言う。無知を恐れない。素直。自分のマインドコントロールの訓練。これをすれば、勝ちはしないけど、負けも無い。作品にもそれが出てくる。当時はタブーのマンガの影響など話す。ほぼ無視。アートじゃない!」と言われる。エログロ!アウトサイダー!。気持ち悪い!!。なぜそんなモノを見せる!観なければいけない!。だが、めげないし、理由のない自信もあった。しかし、こう言う状態の症状は行動として正解だ。傷口を隠す労力を一生やってる余裕はない。そんなモノに使う時間も金も勿体無い。見せびらかして、日常にしてしまえ!!。そんなこんなで、犬山キワマリ荘(多目的スペース)を開設し個展を開く。その頃から、感動しました!。と、言う人が増えだし、泣く人も。その時思ったのは、そうか、自分の治療のために薬(作品)を作ってきたけど、私と同じ病気(気持ち)の人には効くんだ!ってこと。その人数はけして多くは無い。でも、必要とされている。その時の幸福感は今も忘れない。しかし、腕が良かったのか、特効薬の精度が上がっていく。と、どうなるか、効く人には効くけど、効かない人にはまったく効かない。ピンポイントの精度が上がりすぎてゆく。最終的には、結局、自分にしか効かなく成るし、達成感も出てきた。で、まあ、絵が描けなく成ったので、絵を描くの止めようかな、と思ったのも事実。なぜかって!?。絵を描き続けるために、不幸の連鎖に戻る人を何人も観て来たから。幸せに成るために絵を描いて来たのに、幸せなると、絵がかけない、、、、と悩む。本末転倒だ。しかし、思い出した。苦しかったから絵を描いたんじゃ無い!。絵が好きだったから、苦しかった時に絵を選んだんだ!!。それに気付ければ、もう大丈夫。 


(5)キワマリ荘 


1996年愛知県犬山市にキワマリ荘(犬山)が誕生する。8つの4畳半から成る2階建てのコーポで、多目的スペース。大家さんの許可を得て又貸しし、荘の名前変更の許可ももらい市役所に登録。私は貸しギャラリーで4回ほど「キワマリ荘」とういタイトルで、個展をしていたから、瓢簞から駒である。ただの文字を現実に存在させてしまった。当時私は、脱サラした27歳。そのキワマリ荘の中にアートドラッグセンター(ギャラリー)を設立し、そこでの個展「神の生活」(1996-7)が美術手帳のレビューに載った。それを見た、ワタリウム美術館(東京)のキュレーターが資料請求。三ヶ月後。どうなったか知りたくて電話。どちらさまですか?」と言われ、東京に行くことを決める。三度目くらいに新聞紙が支持体の作品を見てもらう。そして、展覧会が決まった。当時(今でも!?)の名古屋では革命だったと思う。貸し画廊10年、企画画廊10年、美術手帳のレヴューが載る、美術館(国内)で展覧会、作品買い取り、学校の先生。のレールが、作家が自分でギャラリースペースを持ち、美術手帳、美術館。飛び級したのだ。さらに、東京の展覧会の後、大きな海外の展覧会に招待される。作家が自分でギャラリー作って、自分で売り込み、海外の美術館で展示するところまで行ってしまった。他の若い作家が黙ってるわけは無く、次々に作家のスペースが生まれ、かなり貸しギャラリーが減ったと聞く。そして、水戸のキワマリ荘、石巻のキワマリ荘の立ち上げと、時は流れる。キワマリ荘は「あったら良いのに、無い場所」を作ること。行き場のないバラバラの才能(力、センス)を集める場所。毛利元就の三本の矢と言ってもいい。ここから世界に発信すると言う覚悟の砦。


 (6)中途半端(何にも成りきれない)な作品 


学生の頃、教室の窓から、トラック競技を観て思った。普通に皆と走ったら必ず負ける。ゴールに行けば良いなら、逆に走ればいいのでは?コレを美術に当てはめると、「技術を身につけていく」の逆、抜く。天才と馬鹿が紙一重なら、私は馬鹿側からの方が近い!はずだ。ならば「楽描き」を極めよう!!。個性は誰にでもある、同じような表現になっているのは、教育や道徳性による、固定観念や、共同幻想のためだ。全て疑え、自分を信じるな、何かを考えたり、思ったら、「どうして、そう思いたいか、考えろ!!」。もっと弱くなれ、もっと貧しくなれ。ある時、自分より不自由な人を見て救われた気持ちになった。あの人よりは幸せかもしれない。そう思った瞬間、その人が意図的にそれを表現として行動していたら、私はその人に「勇気と希望をもらったコトに成る。」これは衝撃だった。イジメられてる人が実は主導権を握っている。私がイジメられてやっているおかげで、お前はストレスを発散し、やっと生きていけるのだ。私は、頭が悪い。特に言語記憶がザルで、高校の時に「無能者」とか「なんの取り柄もないヤツ」と言われていた。そんなコトをずっと言われ続けた人間がどう成るか分かるだろうか?本当にそうだと思い込み、そう言う生き方をする。その人間の一発逆転が逆走だった。そして、考える。その中で導き出された私の個性は「中途半端(ずっと途中)」だった。そして、これを表現しよう。「中途半端な作品」は、時間をかけて、「中途半端を表現した作品」になってゆく。この違いは、とても大きい。そして、自己治療、癒し、存在理由、関系、と進んだ。バラバラだった心が、一つになり、個になり、他の個を理解するようになり、存在理由の必要としない木や石を受け入れるようになる。それからだろう、風景が美しく見えるようになった。


 (7)「真実」は美しい!? 


私にとって良い絵とは「真実」だった。そして、「真実」は美しいと思い込んでいた。描いてる時の真実は「その時」しかない。昨日とか、明日にはないし、比べられない。ゆえに、嘘の無い、いや、嘘が有ったとしても、それを受け入れた、真実を表現する事が重要。技術が有るとすれば、自己の真実追求技術。でもこれ、他者や過去の作品とも比較できない。その時の真実は、その時の自分にしか分からないから、後から作品観ても、「この時は、こんな気持ち」ね、だ。やっかいなのは、真実だからって、良い作品とも限らない!だって、その真実、自分にとってだし、他者に関係ないから。それでも、現状報告の作品表現は避けてた。例えば、「今、寂しい」とする。寂しい絵を描くのではなく、なぜ寂しいのか、どう寂しいのか、寂しいと内臓の調子はどんな感じなのか、それは、どうすれば、乗り越えられるのか、その方法は、、、」とを描いた。発表して、他者の感想を、できるだけ多く聞いた。気分の悪いことを色々言われたら、伝えたい事は、伝わっている。それが、ネガティブに伝わってるだけだ。好きとか嫌いとか。そんな事、関係ないくらいに、突き抜けてないから、傷口みたいに、触られると、ヒリヒリする。突き抜け方が足りないだけだ。突き抜けちゃえば、誰も何も言わなく成る。ダメだって言われても、やりたい事は、やる。そう言う意味で、他者の感想は大切だ。自分が何に「イラッ」とするか解る。そこがキモだ。取り入れる事ができる事は、全部取り入れる。でも、どうしても、止めたく無い事もある。それは、突き抜けるしかない。表現者だから、それだけで、終わったらダメで、新しい美意識の獲得とか、批評性(現代性とか社会性)とか必要になるけど、こう言う描き方する作家は、批評性の獲得に時間がかかる(経験者談)。 


(8)ファウストはドイツ語で「げんこつ」


 以前、私が大変お世話になった方から、お前は「ファウスト」を読め!!。と言われた。それは、自己治療的な作品が完成後、また作品ができるように成る人は少ないらしい。その少ない作家の代表の一人がゲーテであるらしい。当時(15年前)読んでも、よく分からなかったが、最近読んでみると、あら不思議。「なるほど、そう言うことか」。ファウストの第一部と第二部は全然違う。一部は魂を賭けて若返り、欲情に溺れ苦悩するだけだが、第二部が凄い。(第一部)ファウストは悪魔と、「時よ止まれ、お前は本当に美しい」と言ったら地獄に行く契約。これは、「人生に満足した」らってコトと解釈。(第二部)ついにソレを言ってしまう。メフィストによって、魂が地獄に運ばれる、その時、天使に救われるのだが、、ファウストは厳密にはソレを言ってない。「(将来)○○に成ったら、こう呼ぼう」って話で、実際はそう成ってない。完全に自然死。未来は、こう成ってほしい、そして、もし、そう成ったら、満足するだろう、、って話だから、「まだ、死にたくない!」に成る。ただ、「そうだけど、言った事は、言ったよね!」って言われれば、言った。この場面、ファウストは目が見えなく成ってて、作業の音だけが聞こえる。この事業をやり遂げるためなら「何してもかまわん!」みたいな事言ってる。最後まで「やなヤツ」なんだけど、これ本当は悪魔が「墓穴(終わり)」掘ってる音。メフィスト(悪魔)は言う、死ぬまで求めつづけ、結局最後まで何も握るコトができなかった。しかし、天使はココ(常に努力しつづけたコト)を評価し、魂の救済をする。作品性より、作家性を重要視する、日本人に受け入れやすい。うのなとなのまにまにせもしもしらずいのまふるふる(宇宙の中で、名に囲まれ誕生も死も知ることができず、今を積み重ねている)


 9)自分に上手に嘘をつく。


 愛とか幸せとかを問いにしても意味がない。「1+1=」の答えは「2」だけではない。1x2、4/2、0.5x4、二進数なら10だし。いくらでも答えは存在する。「2」はテスト製作者(常識、ルール)が正解にしていて、回答者は製作者の正解を「当てる(答える)」(クイズ)ゲーム。本当の答えは無限にある。そもそも=(イコール)とは何なのかを考えればわかる、同じであれば良いはずだ。「2」が答えになるのは、遠近法的な思考方法も問題になる。遠近法は消失点に向かって物体が小さくなる。消失点は画面全体にX(バツ)を描いた時の中心。この場合の消失点は人生(ゲーム)で言えばゴールや目的になる。人は若い時や若い人に目的を持てという。確かに目的を持てば人生設計が楽だ。ゴール(終わり)を設定すればそこまでの道のりを設計できる。夢ではなく目的に変えることができる。だからと言って、この考え方が正しいわけではない。幸せは幸福度で決まる。目的を持った生き方で満足できない人もいる。こういった人は、女性や旅人に多い。目的を持たなくても幸せ。目的を持たない目的と言い換えた方がわかりやすい人もいるだろう。実は私も若い頃は、目的や目標を持ってない人に対して、「持つべき!、なぜ持たない!」と浴びせていた。しかし、これは「目的を持たない人」が自分にとって真逆の存在であることへの恐怖だ。人は自分を平均(基準)にしてしまう。そして上下関係をつけてしまう。その生き方が正しいなら、私の生き方が間違ってるのか!?になる。そうではない。いろんな考え方や生き方がある。話が飛びすぎてしまった。始まりに戻す。問いの製作者が自分自身なら、答えは自分に聞くしかない。自分に上手に嘘をつく。<終>


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