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去年マリエンバードで」、ファウスト」、キャラだけがある世界、他
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去年マリエンバードで:
ネットで色々調べるが、
これほど、あらすじ内容が違うのも珍しい。
ホントに、皆、同じ映画観てますか!?
しかしこれが、こそが私の理想。
観た人の観たいモノに成る。
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天井の装飾、どこまでもフラクタルに続く。
鏡に映る装飾、絵に描かれた庭、扉のレリーフになってる庭の形、そして庭、
トランプの柄、ゲームに使う棒と、リンクしてゆく。
演劇の背景の庭、絵の庭、庭(映画の中の)、~を観てる人の連鎖が私にたどり着く。
演劇が始まっている。
劇中で、男が女をどこかへ連れて行こうとしている。
ここでいきなりラストに飛んでみる。
ロビーで、男と妻らしき女が、同じ様なシーンで幕を閉じようとしている。
この時のナレーションと、最初の演劇のナレーションの内容が重なる。
夫らしき男は、演劇を観ている。
最後まで観ると、2人追う事が出来ないとナレーション。
始まりに戻る。
演劇を、夫らしき男は観ている、が、講演後は映ってない、
だが、妻らしき女がそこにいる。
物語はそうして始まる。
無数にある平行世界と世界をつなぐ「キー」の多重のレイヤー。
夫らしき男」がゲームを二種類する。
1、3、5、7と棒を置き、抜いていく。
もう一つは、ポーカー。
見えているのは、自分の手持ちカードだけ。
夫らしき男」はどちらも必ず勝つ。
権力、支配力。
夫らしき男」は、父親や愛人かもしれない。
全ては、いずれ、立像や庭園の様に動かない過去に成る。」と、ナレーション。
中盤、男と妻らしき女は、男女の立像彫刻を観ながら、その状況を言いあう。
その後、夫らしき男が「実は、この男女は、、、」と真実を言う。
だが、それが事実だと言う証拠はない。
過去の(死んだ)モノの真実は無い。
観た人の観たいモノに成る。
この映画は、過去に成らないためにループし、物語を生産し続ける。
死なない映画。
あれ?、どっちにしろ、
観た人の観たいモノに成る。
ポーカーのプレイヤー。
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今の感想:
あのループ空間の屋敷こそ「生」であり、
そこから女をつれて行こうとする男が「死(神)」。
ロマンチックな見方をすると、死神が恋をした話。
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この映画は、ずっと(20年以上)観たかったが、観る機会が無かった。
レンタルも無いし、中古も異常に高いし。
ところが、最近ブルーレイで発売され(て)た!
はい、Amazon。
一番好きなのは、羅生門だけど、気分によってマリエンバード。
ブルーレイ裏表紙に「羅生門」をモチーフにしたと書いてある。
この世界から抜け出せるのは死ぬときだけ。
そんな映画。
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ファウスト(第一部)(第二部):
ファウストの最後、「時よ止まれ、お前は本当に美しい」って、死にたくない」ってコトか。
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(第一部)ファウストは悪魔と契約、
「時よ止まれ、お前は本当に美しい」と言ったら地獄に行くことに。
これは、「人生に満足した」らってコト。
(第二部)ついに、言ってしまう。
メフィストによって、魂が地獄に行こうとする、
その時、天使に救われる。
だが、だが、
ファウストは厳密には言ってない。
「(将来)○○に成ったら、こう呼ぼう」って話で、実際はそう成ってない。
死んだ魂の近くにメフィスト(悪魔)が居たから、
そういう流れに成ってるが、完全に自然死。
ただ、「そうだけど、言った事は、言ったよね!」って言われれば、言った。
今なら、裁判だ!
未来は、こう成ってほしい、そして、もし、そう成ったら、満足するだろう、、って話だから、
「まだ、死にたくない!」に、成る。
この場面、ファウストは目が見えなく成ってて、作業の音だけが聞こえる。
この事業をやり遂げるためなら「何してもかまわん!」みたいな事言ってる。
最後まで「やなヤツ」なんだけど、これ本当は悪魔が「墓穴」掘ってる音。
巧すぎる。
ゲーテは死ぬ時「もっと光を!」って言ったぐらいだから。
ホントは「格子戸を開けて」と続くらしいが、意味的に変らない。
メフィスト(悪魔)は言う、
死ぬまで、求めつづけた、追いつづけた、結局最後まで、何も握る事は出来なかった。
しかし、天使はココ(常に努力しつづけたコト)を評価し、魂の救済をする。
これ、好き。
作品性より、作家性を重要視する、日本人に受け入れやすい。
私は、行為(絵を描く)をしつづける事をアートだと考えている。
生き仏(座禅をしつづける)も、そうかな。
危険なのは、何でもアートに成る、日常でさえも。
ちなみに、私が読んだファウストは池内紀(訳)。
これも、去年マリエンバードで」と同じく、読んだ翻訳(本)によって解釈がバラバラのようだ。
例えば、「、、時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい、、」池内紀(訳)の「お前」とは何か!?の感じ方とか、
文そのものの意味もそう。
Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen!
To that moment [that is, when he sees free men on free soil] I might say ― Stay, thou art so beautiful!
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追記:
手塚治虫は「ファウスト」を21歳で描いてる。
ファウストの1部と2部をまとめてる!これは天才だって素直に思う。
「百物語」42歳、
ファウストが完全に日本の風土に置き換えられてる。凄すぎる。
さらに、メフィストが女性で、最終的に相思相愛に。
魂の救い方に、(恋)愛が関係して来る。
この本の解説で、ファウストがドイツ語の普通名詞だと「げんこつ」だと知る。
手塚治虫の20代と40代のコマ割りの変り方とか、マンガの歴史。
ネオ・ファウスト(未完、絶筆)、
「百物語」と同じでメフィストが女性。
1970年代の日本、内容は、原作の第一部がほぼ終了。で、
ここまで、取り上げなかった「ホムンクルス」を取り上げている。
これ、ホントに続き読みたい、、原作だって2部から面白く成る、、残念。
原作でも、唐突にでてくるからな「フラスコに入ったホムンクルス」。
人造人間の最初の記述(という記事を観たけど、探せなかった)。
なぜこの話を、ぶち込んで来たんだろう。
進化と文化。
「世界一美しい人へ」と描かれた黄金のリンゴは誰の手に、、、というギリシャ神話があるが、
パリスが「美女(アプロディーテ)、権力(ヘラ)、勝利(アテナ)」の中から美女を選び、
トロイヤ(トロイの木馬事件)戦争に成る。
この話が、ファウスト(全体的)に反映されている、第二部はヘレナ(美女)探しに行くし。
「百物語」、「ネオ・ファウスト」は、ファウストの満足(欲望)を三つの願いに変更している。
巧い!。
ちなみに、ゲーテが最後に恋(17歳の女性)をした場所はマリエンバードである。
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45歳を超えた辺りから、間違いなく別のステージに強制移動する。
死」の捉え方の問題と、その美意識。
知人観てると、自分中心の思考だったのに、
子供(家族)が中心に成ったために、作風の変化が余儀無く。
とかもある。
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ただ、キャラだけがある世界:
20年前(2000年頃)、マンガとアニメはアートでは無かったが。
私たちの世代は、日本ではマンガこそ芸術だ!と考え始めていた。
だからこそ当時は、アートの素材やネタとして、取り込む事が出来た。
だが、マンガが芸術と認知されたら、このジャンルは終焉する。
今や、美術館でマンガとアニメは認知され、クールジャパンの先頭に立つ。
美術館で展示されたモノがアートに成るなら、マンガとアニメはアートだ。
マンガとアニメが展示される。
何を観に行ってるのか。
マンガとアニメの中での巧さ、表現力の伝承と進化。
ストーリーや世界観の伝承と進化。
一枚の絵としてみた時、それは、全て断片だ。
主人公の絵がある。
それだけでは、成り立たない、ストーリーや世界観がある。
当然、それは知っていなければ成らない。
日本人は知っている。
海外の人は、勉強しなくてはいけない。
これは、日本にとっての現代アートと同じ。
キャラが自立特化し、ストーリーや世界観のないキャラも生まれる。
ただ、キャラだけがある。
絵(キャラ)の巧さ(キレイ、カワイイ、カッコイイ)は純度を増して行くが、
画面密度が薄く成り、美しさ」の喪失(出版物(量産)の可能性もあるか、浮世絵あるし)。
キャラが無くならないだけで、美術の流れとと同じだ。
この後、風景や人物を視点の変化、解像度の変化などで、色彩や構造に移るから、
西洋美術と違う流れで、同じ場所に行くのか。
視線誘導と思考レイヤー。
鑑賞者の中に、キャラに特化した絵に満足できない(飽きる)人が出て来る。
一枚絵の意味が再発見される。
切り取って、どう自立させるか。
それでも、キャラを保ち続けるか、、、、。
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ソレが、顔やfaceに成る前のイメージに持って行く。
言葉に成る前のイメージ。
そうすれば、言葉(英語)の壁を越えられる。
死ぬまで生きる。
人は考える。
生きるコトに意味が必要になる。
言葉にして迷い悩む。
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マンガとアニメ」と真逆の絵が補色関係として必要に成って来る。
マンガ家が、アートをディスればディスるほど強く成る(20年前までは立場逆)。
そこにしか、(絵に関して、だけど)日本にアートの必要性を感じない。
今やアートは、マンガにネタにされてる。
年を重ねると、(流行の)マンガやアニメでは、昇華できない「何か」が溜まって来る。
その層が、流れてくる可能性はある。
目も悪く成るし、集中力も無く成るし、、、。
手の中で鑑賞できるモノ、、、分かるなぁ。
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梅ラボ観に行った。:
自分の立ち位置の不在。モニターで見る作品、モニターに映るツイッターに切り取られた作品画像。梅ラボの作品と自分とのちょうどいい距離。もの凄くやだけど、ジェネレーションギャップがあるかもしれない。私の上の世代にある「鉄」の様な。梅ラボ(達)は、境界(現実とデジタル)が曖昧。私は、距離は近いが別物。マトリックスの世界観は理解できる。が、何かそれ以上(以外)の繋がり方をしてる。幻覚を観た。風景がピクセル単位で崩れ、風に流された。たぶん、あの展示の影響だ。その時、風景を「一枚の写真(画像)」の様にとらえた気がした。甲殻機動隊(ネットにダイブ)や電脳コイル(ポケモンGO)的でもない。なんだ!?風景の捉え方の変化か?やばいな、チャンネル空けられたかな?そう言えば、キュンチョメさんも風景を画像処理する作品作ってたな。風景、モニターの風景、そこに電脳コイル(ポケモンGO)。普通に風景観てても+2レイヤー。妖怪(幽霊)足したら+3レイヤー。40歳で普通に風景観れた時、感動しすぎて、そこで完結させてしまった。レイヤー足せたのか!これは、面白い。
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去年マリエンバードで(短):
どこまでもフラクタルに続く、天井の装飾。
鏡に映る装飾、絵に描かれた庭、扉のレリーフになってる庭の形、そして庭、
トランプの柄、ゲームに使う棒と、リンクしてゆく。
演劇の背景の庭、絵の庭、庭(映画の中の)、~を観てる人の連鎖が私にたどり着く。
全ては、いずれ、立像や庭園の様に動かない過去に成る。」と、ナレーション。
中盤、男と妻らしき女は、男女の立像彫刻を観ながら、その状況を言いあう。
その後、夫らしき男が「実は、この男女は、、、」と真実(嘘かもしれない)を言う。
過去の(動かない)モノの真実は無い。
観た人の観たいモノに成る。
映画が、過去に成らないためにループし、物語を生産し続ける。
観た人の観たいモノに成る。
無数にある平行世界と世界をつなぐ「キー」の多重のレイヤー。
この世界から抜け出せるキーとは何か。
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