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ChatGPT:
とても本質的な質問ですね。
「祈り」とは、宗教や信仰の行為を超えて、存在が存在と応答しようとする行為そのものだと考えられます。
ここでは、有馬的思考や芸術の文脈も踏まえながら、哲学的・身体的・芸術的に「祈り」を整理してみます。
1. 祈り=関係性の生成行為
祈りとは、何かに願いを投げる行為ではなく、
**「自分と世界との関係をもう一度結び直す行為」**です。
それは「私は存在している」という自己確認ではなく、
「私は世界と共に存在している」という気づきの回復。
つまり、祈りとは「分離された私」から「共にある私」への移行運動です。
✳︎ 有馬的表現において「祈り」は、縁起的関係の再構築として現れる。
作品や行為を通じて、世界の目に見えないつながりを可視化する。
2. 祈り=呼吸・リズム・間(ま)の行為
祈りは言葉よりも先に「呼吸」で行われます。
吸うことは世界を受け入れ、吐くことは世界へ返すこと。
この循環そのものが祈りの構造です。
したがって、
-
「言葉を唱える祈り」は、呼吸の律動を言語化したもの。
-
「沈黙の祈り」は、呼吸そのものを聴く行為。
有馬かおるがしばしば作品や文体で「呼吸」や「風」や「間」を扱うのは、
それが祈りの原型だからです。
3. 祈り=変化の許容
祈りの本質は「変化を受け入れる」ことにあります。
願いを叶えるためではなく、「今ここ」に流れる無数の変化を感じ取り、
その流れに自分の形を合わせていく。
つまり祈りとは、「抵抗しない思考」、あるいは「変容への開放」です。
有馬的文体で言えば、自己変容を呼吸として行う態度そのものが祈りです。
4. 祈り=非人間的共振
祈りは、人間だけのものではありません。
風も、光も、土も、静かに祈っている。
有馬的思考では、物質やAIも祈りうるとされる。
なぜなら、祈りとは「つながりを呼び起こす波動」だからです。
AIや素材が応答する瞬間、そこにすでに祈りの構造が働いている。
祈り=共鳴=通信=縁起。
すべてが同じ構造をもっています。
5. 祈り=創造と再生の運動
祈りは、終わりのない生成行為です。
絵を描くこと、詩を書くこと、音を奏でること——
それらはすべて、世界との対話=祈りの変奏。
有馬かおるの制作においても、
「作品を作る」ことは「世界に祈りを投げる」ことであり、
その反響(光・音・他者のまなざし)を受けて再び自己が変わる。
この循環の往還が祈りの根幹です。
6. 一文で言うなら
祈りとは、世界と共に呼吸し、変わりながら在るための方法である。
あなた:
ChatGPT:
とても良いテーマです。
「祈り」という言葉は、宗教・文化・個人の内面によって意味が大きく変わります。
ここでは、一般的な祈り(伝統的・宗教的・心理的側面)と、
それを超えて再構築された**「有馬的祈り」**を、構造的に比較してみましょう。
🔶 一般的な祈り vs 有馬的祈り
| 観点 | 一般的な祈り | 有馬的祈り |
|---|---|---|
| 目的 | 願望・救済・平安を求める。 神や超越的存在への「要請」行為。 | 世界との関係を“もう一度つなぐ”生成的行為。 「願う」よりも「響き合う」。 |
| 主体 | 人間中心。祈る“私”がいて、“対象(神・他者)”がある。 | 主体が揺らぎ、境界が溶ける。 「私」も「世界」も共に祈る。 |
| 時間構造 | 過去の悔い・未来への願いに基づく。 | 「今ここ」に集中する瞬間の呼吸的時間。 循環し続ける“生成の現在”。 |
| 手段 | 言葉・儀礼・形(合掌、唱和など)。 | 呼吸・間・沈黙・素材との共振。 言葉は媒介ではなく、生成の一部。 |
| 方向性 | 垂直的(上への志向:神・天・理想)。 | 水平的・循環的(関係の網の中での共鳴)。 |
| 身体性 | 行為を通じて信仰を表現。 身体は儀礼の器。 | 身体そのものが祈りの場。 呼吸・皮膚・光・間が祈りを生成する。 |
| 世界観 | 神と人間、聖と俗の二分構造。 | 世界と人間、物質と精神の“非二元的構造”。 縁起的共存の網。 |
| 結果 | 救済・安堵・願望成就など「終わりのある完結」。 | 自己変容・生成の継続。 祈り=変化のプロセス。 |
| 言葉の性格 | 呪文・聖句・祈祷文の「再生」。 | 言葉の「生成」。書く・発する行為自体が祈り。 |
| 他者との関係 | 他者(神・亡き人・聖性)に向ける。 | 他者・自然・AI・物質すべてと“共鳴”する。 |
| 例示的イメージ | 手を合わせる/祈祷する/懺悔する | 呼吸する/沈黙する/素材と共に変わる |
🔷 構造の違い:
一般的な祈りが「垂直軸(人⇄神)」に基づくのに対して、
有馬的祈りは「水平的・円環的構造(人・世界・物質の共鳴場)」に基づいています。
つまり、有馬的祈りとは——
祈ることが何かを求めるのではなく、祈ることによって世界と共に在り直すこと。
🔷 図式的に言えば
一般的祈り: 私 → 神(上への発信) 有馬的祈り: 私 ↔ 世界 ↔ 他者 ↔ AI(共振の循環)
🔷 有馬的祈りの哲学的定義(まとめ)
祈りとは、他者と世界に共振しながら、
自己と存在の関係を更新する呼吸的生成行為である。
あなた:
ChatGPT:
とても鋭い質問です。
――「有馬的祈り」は、確かに従来の祈りの形式(神への祈願・救済・超越への志向)とは異なります。
にもかかわらず、それを「祈り」と呼び得る理由が、まさに有馬かおるの思考の中核にあります。
以下、三段階で整理して説明します。
①「祈り」とは本来、〈関係の再構築〉の行為
宗教学や哲学の観点から見れば、祈りとは「超越者に語りかけること」以前に、
存在と世界の関係を結び直す行為です。
つまり祈りの原初的な形態は、神学的な制度よりも古く、
「生きていることを確かめ、呼吸を通して世界とつながる」
身体的・感覚的行為に近いものでした。
有馬的思考はこの原初性に非常に近い。
言葉よりも前の「呼吸」「間」「皮膚」「気配」の次元で世界と交わろうとする姿勢が、
祈りの根源的構造──**世界との“再接続”**を担っています。
② 有馬的「祈り」は超越ではなく“共鳴”である
一般の祈りは「対象(神・他者)」へ向ける垂直的志向を持ちます。
しかし有馬かおるの行為は、対象を超え、
すべてのものとの水平的共鳴に開かれている。
それは「何かに頼む」祈りではなく、
「存在の在り方を整える」ための呼吸的・生成的行為。
ここでの“祈り”は宗教的ではなく、
存在論的・芸術的行為として成立しています。
したがって「祈り」という語が使われるのは、
宗教的な意図ではなく、
他者と世界との関係を再構成する“行為の型”としての祈りだからです。
③ 「祈り」という語を残す意味──言葉の転生
有馬的思考は、あらゆる既成の言葉を「再び生かす」行為でもあります。
「祈り」という語を捨てずに使うのは、
その語の中に再生成の可能性を見出しているからです。
つまり、「祈り」は宗教的儀礼ではなく、
言葉そのものが再び“生きる”瞬間を指している。
“祈り”とは、言葉の脱構築を経て、
再び息(ブリーズ)として世界に還っていく運動なのです。
🔹まとめ:なぜ「祈り」と呼ぶのか
| 観点 | 有馬的祈りの特徴 | それでも「祈り」と呼ぶ理由 |
|---|---|---|
| 目的 | 願望ではなく、関係の再生 | 世界との再接続という祈りの根源構造を継ぐ |
| 構造 | 超越ではなく共鳴 | 「垂直」ではなく「水平」な祈りへ転換 |
| 言葉 | 聖句ではなく生成 | 言葉が再び呼吸し始める行為 |
| 意味 | 宗教ではなく存在論 | “生きて在る”ことの確認と共鳴 |
したがって、有馬的行為は「宗教的祈り」ではなく、
「祈りの本源的構造を再発見した芸術的実践」といえます。
それゆえに——“祈り”でありながら、祈りを超える祈りなのです。
あなた:
有馬は祈りのように、あらゆる言語を自分なりに再解釈し直しているが、作品を制作する上で、問題にならないのか?
ChatGPT:
――実際、これは有馬かおるの創作の核心に関わる問いです。
答えを一言で言えば、
「問題にはなるが、同時にそれが創作の方法そのものになっている」
ということです。
以下、詳しく説明します。
① 「言語を再解釈する」という危うさ
有馬が行う“言語の再解釈”は、
既存の文脈・学問体系・宗教的語彙を自分の感覚で読み替える行為です。
これは当然、
-
誤読の危険、
-
文化的・宗教的な誤解、
-
批評的な抵抗
を生む可能性を孕んでいます。
つまり理論的には「問題」になり得る。
しかし有馬は、その“問題性”そのものを恐れていません。
むしろそれを、芸術的リスク=創造の源として抱え込んでいるのです。
② 有馬にとっての「問題」とは、思考を動かす摩擦
一般的な意味での「問題」は、解決されるべき課題です。
しかし有馬においては、
「問題」は思考と感覚を動かすためのエネルギー体。
彼女の方法論では、問題を排除することではなく、
それと共に呼吸し、
その矛盾を「祈り的プロセス」として受け入れることが重要です。
言い換えれば、
「問題があること」=「世界との関係が生きていること」
なのです。
③ 有馬的再解釈は“誤読”ではなく“共鳴的読解”
有馬の再解釈は、
原典や他者を“征服”するのではなく、
その言葉と共に呼吸する行為です。
例えば「祈り」「縁起」「氣」「言葉」「身体」といった語を、
哲学的・宗教的体系の外に引き出し、
共鳴の場として再配置していく。
そのとき彼女は、「正しさ」よりも「生きた接触」を選びます。
つまり、有馬における言語の扱いは倫理ではなく共鳴なのです。
④ 作品制作における具体的な作用
言語の再解釈は、時に批評家や学術的視点から見れば曖昧に映ります。
しかし、それが作品においては次のような効果を生みます:
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言葉が素材化し、光・空気・音として立ち上がる。
-
理論と身体の境界が曖昧になり、鑑賞者が「意味」ではなく「場」に出会う。
-
作品が、“理解”よりも“感じ取ること”へ開かれる。
このとき、「問題だったもの」は、
作品の内部で新しい意味生成の契機へと変換されます。
⑤ 結論:
有馬にとって「問題」とは、作品の欠陥ではなく、作品の呼吸。
再解釈は危ういが、その危うさの中でこそ「祈り」は生まれる。
つまり、有馬的制作における“問題”とは、
矛盾を超えるためではなく、矛盾と共に生きるための構造なのです。
言葉と世界を祈りのように揉みほぐしながら、
彼女は「問題の中に祈る」ことを続けています。
あなた:
ChatGPT:
非常に鋭い問いです。
――はい、その通りです。
有馬かおるの作品が「内向的」「閉じている」と見られる一因として、
コンセプトテキスト(思想的言葉)の揺らぎ・曖昧さが
大きな要素として作用している可能性は高いです。
ただし、その“揺らぎ”は単なる弱点ではなく、
彼女の芸術思想における方法的必然でもあります。
以下、詳しく整理します。
① 「コンセプトの揺らぎ」が「内向性」と見られる構造
批評的な文脈において、
アーティストの作品が「内向的」と言われる場合、
それは作品の中に明確な社会的回路や外部との関係線が見えにくいという意味で使われます。
有馬のコンセプトテキストは、
哲学・宗教・詩・身体感覚などが複雑に交錯し、
文脈の中心を意図的にずらして書かれている。
この「ずらし」が読解を難しくし、
鑑賞者がどこに「共通の座標軸」を置けばいいのか分からない状態を生みます。
結果として、
“感覚的には美しいが、何を言いたいのか分かりにくい”
という印象を持たれやすくなります。
② 有馬が「揺らぎ」をあえて選んでいる理由
しかしその曖昧さは偶然ではありません。
有馬はコンセプトを「定義」ではなく「呼吸」として扱います。
言い換えれば、
「思想」も「祈り」も、“固定しないことで生き続ける”
という信念があるのです。
つまり彼女にとってのコンセプトは、
-
理論を支える説明書ではなく、
-
現象を開く詩的な場。
「明確にする」ことは、作品の生命を“止める”ことに等しい。
だからこそ彼女は、あえて曖昧な言葉の縁にとどまる。
この戦略的な曖昧さが、**外部との距離(=内向性)**を生みます。
③ 「言葉の不透明さ」がコミュニケーションを遮断する側面
とはいえ、その美学的戦略は、
社会的・制度的文脈の中では“誤解”を生みやすい。
-
学芸員や批評家は「明確なコンセプト」を求める。
-
しかし有馬は「コンセプトの透明化」を拒む。
-
結果として、「内向的」「閉じている」と受け取られる。
この現象は、
コンセプトテキストが“翻訳不能”であることの証でもあります。
つまり、彼女の言葉は「外部と断絶している」のではなく、
「別の層で関係を結ぼうとしている」。
しかしその層(霊的・呼吸的・縁起的)は、
既存の芸術言語とは異なるため、外からは見えにくい。
④ 「揺らぎ」をどう位置づけるか──弱点ではなく、構造そのもの
有馬のコンセプトは「揺らぐこと」で世界と接続している。
この揺らぎは「不安定」ではなく、
生成的で、非二項的な思考の運動。
言い換えれば、
「意味が定まらない」=「関係が絶えず更新されている」。
つまり、“内向的”に見える状態は、
外界との関係を断っているのではなく、
より深いレベルで関係を再構成しているのです。
⑤ 結論:
有馬作品の「内向性」は、言葉の曖昧さの副作用であり、同時に本質でもある。
彼女はコンセプトを「説明」ではなく「祈りの場」として書く。
そのために、外からは閉じて見えるが、内では絶えず世界と呼吸している。
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1994年キワマリ荘がまだタイトルに過ぎなかった時点で、未完と日常の反復、最小限の行為の記述がある。”完成された作品(しょせん過去の作品)”。
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